平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


「あんたのおとうさんは、根岸の重さんっていって、その世界じゃ有名だったらしいわよ」と友人から聞かされたのは戦後のこと。聞いても「へぇ」という程度だった。

父が博徒をやっていたのは、昭和10年頃までだった。その頃の博徒は任侠(にんきょう)の世界で、堅気(かたぎ)さんとは区別をつけていた。とはいえ、博徒は博徒、普通のお勤め人とは違う。父が母以外の女性に産ませた子供は何人もいるらしく、多分私もその一人に違いない。と、のほほんとしていられるのも80歳の後期高齢者になったからで、若い頃は気にしていた。

父と私の写真を比べるとまぎれもない親子。だが、母とは全く似ていない。父が亡くなったあと、母も私の出生の秘密? を一切明かさず亡くなってしまった。

「お父さんはあんたを目の中に入れても痛くないほどかわいがってたんだから」と母はことあるごとに言った。
私が2歳の頃、12月に大きな地震があった。
「お父さんてば、あんたを横抱きにして真っ先に外へ飛び出したんだから」と後になって恨みがましく言われたが、当時の私にはなんのことやら意味不明。

父は私をよく浅草六区へ連れ歩いた。私を肩車して当時日本一の盛り場だった六区をのしのし歩き、「すしや横丁」の角にある「日本館」へ入る。映画はターザン。母は「東京倶楽部」、父は「日本館」と決まっていた。どちらの映画館も洋画を上映、ハイカラ好みだったのかもしれない。

さて、日本館へ入ったまではいいのだが、父は煙草を出してぷかぷか吸い始め、映画はそっちのけ。

映画が終り、あたりが明るくなると、手を上げて「おーい、アイスクリーム屋」と大きい声で呼ぶ。アイスクリームの食べたい私は喜んだが、周囲の人がじろじろ見るのは子供心にも気にかかった。

その頃のアイスクリームは、今のような盛り上がったソフトクリームとは違い、モナカの皮の中に丸くすっぽりと納まっていた。それをひょうたん型の木のヘラですくって食べた。

そのうち、アイスクリームだけでなく「おせんにキャラメル、あんぱんにラムネ」と売りに来た。「あんぱん2つ、ラムネ2本、それとキャラメル」といって、父は腹巻から財布を出して買い込んだ。

無口な父は煙草をふかしているだけ。母と違って「ああしなさい、こうしちゃだめ」とか言わないので私は助かった。

ようやくジーというベルが鳴り、2本目の映画が始まる。初めはニュースだから、子供はつまらない。続いて、ポパイが始まる。私は夢中で観ていて、気がつくと隣りの父の席は空になっていた。外へ出ると、ネオンが瞬いていた。

2011年2月発行/108号に掲載


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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