(目次)
1.風呂の始まりは、寺院の施浴
2.鎌倉・室町時代の風呂ふるまい
3.江戸時代の風呂
4.江戸庶民の社交場、湯女(ゆな)風呂と二階風呂
5.江戸の銭湯は混浴
6.「柘榴ロ」から「改良風呂」ヘ


1:寺院の施浴

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(法華寺の浴室)

 6世紀に渡来した仏教は、聖徳太子の積極的な導入政策もあり、国家宗教へと急速に成長しました。その仏教では、沐浴の功徳を説き、汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事と考えました。

「温室教」という沐浴の功徳を説いた経文もあります。それには、入浴に必要な七物(燃火(ねんか)、浄水、澡豆(そうず)、蘇膏(そこう)、淳灰(じゅんかい)、楊枝(ようじ)、内衣(ないい))を整えると七病を除去し、七福が得られると記されています。

 寺院では七堂伽藍の1つに浴堂を数え、施浴が盛んに行なわれました。奈良の東大寺や法華寺には、今でも大湯屋や浴堂が残っており、当時の名残りをとどめています。家々には浴室がなく、町湯もなかった時代、寺院の施浴は宗教的な意味だけでなく、庶民にとって、うれしい施しであったわけです。施浴によって、庶民が入浴の楽しみを知ったためでしょうか、平安時代の末には京都に銭湯のはしりともいえる「湯屋」が登場します。


2:鎌倉・室町時代の風呂ふるまい

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(源頼朝)

 奈良時代に始まった施浴の習慣は、鎌倉時代に入って最も盛んになります。

 中でも建久3年(1192)、源頼朝が後白河法皇の追福に鎌倉山で行なった100日間の施浴や、幕府が北条政子の供養に行なった長期間の施浴は特に有名で、『吾妻鏡』にも記されています。

 室町時代に入っても、幕府や寺院により施浴の習慣は受けつがれます。施浴は「功徳風呂」などと呼ばれ、一定の日にちを定めて庶民にふるまわれました。

 さらに、施浴の習慣は個人にも広まります。将軍足利義政夫人の日野富子は、毎年末に両親追福の風呂をもよおし、縁者たちを招待しました。その際、風呂や食事をふるまったのは有名です。

 このころから、風呂のある家では人を招いて風呂をふるまい、浴後には茶の湯や、酒宴をひらくなど楽しいひとときを過ごしました。

 これがいわゆる「風呂ふるまい」で、庶民階級でも富裕な家は、近所の人々に風呂をふるまったり、また、地方でも村内の薬師堂や観音堂に信者が集まり、風呂をわかして入り、浴後は持参の酒・さかなで宴会をする「風呂講」が行なわれました。


3:江戸特代の風呂

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(石榴口の入り口)

 江戸で最初の銭湯は、『慶長見聞録』(1614年刊)に、「天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋(ぜにがめばし)(現在の常盤橋付近にあった橋)のほとりに銭湯風呂を建てた」と記録にあります。徳川家康が江戸入りした翌年で、城下町も整っていなかったころです。それが慶長年間の終わり(17世紀初頭)には、「町ごとに風呂あり」といわれるほどに銭湯は広まりました。

 江戸最初の銭湯は蒸し風呂だったと考えられていますが、やがて蒸し風呂の一種「戸棚風呂」が登場しました。浴槽の底に膝をひたす程度に湯を入れ、下半身をひたし、上半身は湯気で蒸す仕組みです。そして、浴室の出入口に引違い戸を付け、湯気のもれるのを防ぎました。ところが、開閉が激しいと湯気が逃げてしまうので、工夫されたのが「石榴(ざくろ)口」です。

 これは、三方はめ板で囲まれた小室に浴槽を置き、出入口に天井から低く板をさげ、湯気の逃げるのを防ぎました。浴客たちはこの板をくぐり出入りします。ところで、柘榴口と呼ぶようになったのは江戸時代特有の言葉遊びです。当時は鏡を磨くのに柘榴の実を使ったので“かがんで風呂に入る(屈(かが)み入る)”を、“鏡鋳(かがみい)る”としゃれ、「石榴ロ」となったとか……。

 また、現在のようにたっぷりの湯に首までつかる「据(すえ)風呂」ができたのも、慶長年間の末頃。据風呂は蒸気ではなく、湯の風呂だったことから「水(すい)風呂」とも呼ばれ、一般の庶民の家庭に広まります。

 当初は湯を桶に入れるくみ込み式でしたが、のちに、桶の中に鉄の筒を入れて、下で火をたく方法が発明されます。これは「鉄砲風呂」といい、江戸で広まります。一方、桶の底に平釜をつけ、湯をわかす「五右衛門風呂」は関西に多かったようです。


4:江戸庶民の社交場、湯女(ゆな)風呂と二階風呂

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(湯女風呂の様子)

 江戸時代の銭湯は朝から沸かして、タ方六つ(午後6時頃)の合図で終わります。銭湯は上下の別なく、裸の付き合いができる庶民のいこいの場所でした。やがて、銭湯で客に湯茶のサービスもするようになって、湯女(ゆな)が大活躍します。というのは、この湯女たち、昼は客の背中を流していますが、タ方を境に、三味線を手に遊客をもてなします。この湯女風呂は、商家の旦那衆や若者たちの間で大評判になります。

 そんな中でも特に人気の高かったのが「丹前風呂」。堀丹後守の屋敷前にある銭湯というところから名付けられましたが、ここの「勝山」という湯女がたいへんな人気で、「丹前の湯はそのころ皆のぼせ」と川柳によまれたほどです。また、このあたりに集まる男たちの風俗を称して「丹前風」と呼び、歌舞伎にまで取り上げられました。

こうして湯女風呂は栄える一方で、全盛期には吉原遊廓がさびれるほどのにぎわいだったといいます。

 一方、幕府は風紀上の理由から、たびたび禁止令を出しますが、ほとんど効き目はない状態でした。しかし、明暦3年(1657)、幕府は湯女風呂を徹底的に取り締まり、湯女600人を強制的に吉原へ送りました。こうして江戸の湯女風呂は廃止されました。

 その後、銭湯は江戸庶民の憩いの場として親しまれました。かつて湯女が客をもてなした2階の広間は浴客に開放され、茶を飲んだり菓子を食べたり、囲碁・将棋を楽しむ社交場として利用されるようになりました。


5:江戸の銭湯は混浴

石榴口内部
(江戸時代の石榴口の内部)

 江戸の銭湯は「入(い)り込(こ)み湯」といわれ、男女混浴でした。これは江戸末期まで続きました。石榴口の中は暗く、風紀を乱すものも少なくなかったのでしょう、何度か禁止令が出されます。しかし、実際はなかなか改まらず、天保の改革(1841~43)の際、厳しく取り締まりが行なわれました。その結果、浴槽の中央に仕切りを取り付けたり、男女の入浴日時を分けたり、また男湯だけ、女湯だけという銭湯も現われました。

 時代は移って明治の世になると、明治政府は幕府以来の旧弊として、男女入り込み湯は特に厳しく禁止し、たびたび通達を出します。しかし、長年の風習はそう簡単には改まりません。実際に混浴がなくなったのは明治中頃でした。


6:「石榴口」から「改良風呂」ヘ

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(明治時代の銭湯の様子)

 明治時代になって、銭湯の様式は一変しました。石榴口は取り払われ、屋根に湯気抜きが作られたり、浴槽と板流しを平面にしたり、洗い場もずっと広くなりました。これは「改良風呂」と呼ばれ、評判になります。後には、湯船の縁を少し高くして、汚れが入らない工夫もされます。

 大正時代になると、さらに銭湯は近代化されて、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、タイル張りに。そして、昭和2年(1927)には、浴室の湯・水に水道式のカランが取り付けられ、衛生面も向上します。

 今日では設備やサービスにもさまざまな趣向が凝らされ、サウナを設置したり、気泡風呂にしたり、スポーツ設備を整えるなど、ユニークな設備が登場しています。

 一方、家庭での入浴法を熱心に工夫する人も多く、温泉ヘの行楽も盛んです。日本人は、たんに清潔のためというだけでなく、風呂に“プラスα”を求める、根っからの“お風呂好き”なのです。