平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
うなぎは滋養があるからと母は私にすすめたが、子供の頃は食べられなかった。食べたのは、タレのかかったご飯の部分だけ。「罰があたるわよ」と叱られても、どうもあのヌルヌルは苦手。
ところが70歳を過ぎてからは、栄養があって精がつくから、寿命も延びるかもしれない、などと月に1度は食べる。元気に長生きしなくちゃと思うから。
気の合ったお友達と前々から菊日和を選んで、湯島の天神様へ行く約束をしていた。絶好のその日、正面の男坂を登り切って境内へ入ると、菊の香が漂ってきた。
左手に「新派」という碑が建っていて並びに泉鏡花作『婦系図(おんなけいず)』の劇中「湯島境内の場」での台詞、
「お蔦、俺と別れてくれ」
「切れろとか別れるとかは……」
が書かれている。
ふと、昔、母と叔母が「花柳章太郎がいいわよ」「私は水谷八重子だわ」と言い争っていたことを思い出した。
境内では菊人形を造っている人たちに出会う。主人公は武田信玄と上杉謙信。川中島の合戦の甲冑(かっちゅう)姿。菊師たちの手鋏(てばさみ)の音が、あたりに心地よく響いている。傍には菊の束の山。職人さんに話しかけると故郷は愛知県と気さくな返事。「明日には出来上がりますよ」ということ、残念。
心を残して、帰りはだらだらと女坂をくだる。坂の左側に作家の久保田万太郎が住んでいた家があると聞いていたので坂を下り、突き当たりに店を構えている易者さんに尋ねる。
「万太郎さんの家はそこですよ」と教えてくれた。このあたりは戦災で焼けなかった家もあり懐かしい。見つけた万太郎の家は、出窓に細い格子戸の木造家屋、叔母の家にも似ている。しばらく万太郎さんの旧居を外から見学して堪能。左折して池之端のほうへ向かう。その途中で軒に魚を干しているお店を発見。
珍しいことにはすぐ飛びつく私。
「その風干しと、あさりをすこしちょうだい」と声をかけると、「おまけしときますよ」と気前のいいおかみさんの返事。さすが下町。
よい匂いがして、気がつけば2時を回っていて、いささか空腹。あたりには食欲をそそるようなお店がずらりとならんでいる。あちらこちらに視線を泳がせていると、蹲(※つくばい)に竹筒から水を落としている小粋なうなぎ屋さんを見つけた。友人とも暗黙の了解。万太郎は無類の食通、この暖簾をくぐったかもしれない。
「いらっしゃいお二階へ」と歯切れのよい案内。細い階段をあがると、横長のテーブルの真ん中が水槽になっていて、観賞用の豪華な錦鯉が泳いでいた。
「新潟の古志の鯉です」と説明があり納得。
※蹲(つくばい): 低く据え付けた手水鉢(ちょうずばち)のこと
2010年10月発行/106号に掲載
【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。
挿絵:笠原五夫(かさはらいつお)
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
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