平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


ブーンと耳元にきて、チクンと刺していくいやな蚊。あれから身を守るのに、現代ではめったに見られなくなった蚊帳(かや)も、戦前はどの家庭にもあった。

昭和19年、アメリカとの戦争も負けが進み、都会では空襲がはじまり、疎開、疎開とみんな大あわて。私の家は田舎がないから東京で頑張るしかなかった。

その年の7月、46歳で父が他界。翌20年3月10日、母と私は東京大空襲で焼け出された。

命だけは助かったものの、板橋の伯母のアパートの一室で食うや食わずの生活。4畳半の窓の外は麦畑、賑やかな花柳界で暮らしてきた母は「さみしくていやぁねえ」と嘆き、私は私でお友達に会えないことが不満。毎日のように親子喧嘩を繰り返していた。

ある日の空襲で、アパートの軒すれすれに250kgの焼夷弾が落ちたが、幸い不発。夜が明けて爆弾の後ろの部分を見た母と私は震え上がった。

その時の配給の大根は、一世帯5㎝ほど。お米は闇でなんとか工面、母の好きな煙草も葉を手巻きにして、とギリギリの暮らし。

もちろん配給だけでは生きていかれないから買い出しに精を出した。窓ガラスの割れた東上線へ大山駅から乗り込み、埼玉県まで息を殺して我慢、我慢。農家の人にカボチャやジャガイモを分けてもらう。交渉するのはなぜか私の役割で、母は離れて気取りきっていた。

そして敗戦。アメリカ兵が来たら女子供はひどい目に会う、との流言飛語。私ばかりでなく、誰もが本気でそう思っていた。焼け跡から焼け焦げた薪を拾ってきてご飯を炊く。誰もがひもじい時代、うっかりしていると、配給のお鍋ごと盗まれることもあった。

終戦後も買い出しは続いた。その時は伯母の田舎に疎開してあった、ひとさおの桐のタンスが役に立った。中身は芸者さんの着物、帯などいろいろ。

中には白と藍色に染め分けた蚊帳も。ところが蚊帳は8畳吊り、部屋は4畳半、折りたたんでも収まりがつかない。暑いので窓は閉められない。クーラー、扇風機? とんでもないこと。

麦畑から蚊はブンブンと容赦なく入ってくる。苦心惨憺(くしんさんたん)の末、やっと蚊帳を吊っても、どこからかブーン、ブーン。
「あんたの吊り方が悪いのよ」と私のせいにする母。
「じゃ自分で吊れば」

そこでまた親子喧嘩。ばたばたしている母の上に蚊帳がどさりと落ちる。もがけばもがくほど、蚊帳は母に絡まる。仕舞いに二人で笑いころげた。そこで親子喧嘩は終わり、母は高いびきで熟睡の様子。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2010年8月発行/105号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


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