平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


私が生れた70年前の家庭にはテレビはなかった。

その頃の子供の手近な娯楽といえば紙芝居だけ。私も紙芝居愛好家の一人。紙芝居屋さんは家の角の電信柱に自転車を止める。ブレーキのキューという音が聞こえると家を飛び出すのは、おじさんの触れ太鼓を独占したいため。たまに体の大きい男の子に取られそうになることもあるが、おじさんは家の角に自転車を止める関係上、私を優先してくれる。渡された自分の体より大きな太鼓を胸の前に抱え、ドンドン、ドンガラカッタ、ドドンガドンと出発。

後からついて来るのは、カチ、カチと拍子木を叩くおでん屋の吉ちゃん。道路には自動車も自転車も走っていない。花柳街はまだ静かな午後2時、迷惑だったはずだが、私達子供はそんなことは一向に構わないで、ドンドンカチカチと触れ歩いた。始まる前に、おじさんから水飴を買う。おじさんは水飴を割り箸にからめ、子供達に渡す。さあ、それからが子供たちの勝負。黄金バットを見ながら、水飴をこねる。強くこねればこねるほど、乳白色に濁ってくる。水飴は濁っているほうが偉い。私達女の子がどんなに力を入れてこねても、力の強い男の子にはかなわない。紙芝居はそっちのけ、おじさんの熱弁もそっちのけ、そのうち肘が触れたの触れないのと喧嘩が始まる。紙芝居が終ると皆がいっせいにおじさんの顔の前へ水飴を差し出す。優劣はおじさん次第。私はいつも一等賞、かわら煎餅一枚がご褒美。

「ずるいよ、おじさんはかずちゃんばかりなんだから」
と大声で怒鳴るのは、足袋屋の雪ちゃん。雪ちゃんはこの界隈ではいじめっ子で通っていた。どういうわけか私のことはいじめない。どうやらその原因は、うちの兄貴を好きだから、らしい。昔もいじめっ子といじめられっ子はいた。でも今よりあっさりしていた。ひっかいたり、つねったり蹴飛ばしたりの程度。殺人事件にはならなかった。ところがこの頃は朝からテレビでは事件、事件のオンパレード、一ヵ月前に起きたことなどは忘れてしまうほど、次から次へ事件が起きる。

この間、家の近くのスーパーで火事があった。年がら年中走っている消防車のサイレンに慣れっこになっているので、火事があってもまたか、という感じ。テレビを見ていると電話のベル。
「お宅の近く火事じゃない」
とテレビで見たと知らせてきたのは相模原の友達。それから火事見舞いの電話が5、6本。確かにテレビは早い。窓を開けると黒煙がむくむくとあがっていた。その煙を見ながら、今でも好きな水飴を割り箸でこねていたら、また電話。
「ありがとう、大丈夫よ。感謝感激です」


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2008年6月発行/92号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


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