○月×日
今、手元に「大江戸瓦版」というB6程度の小冊子がある。以前、お客さんからもらった、いや、いただいた本だが、なかなか面白いんだよね。 内容は江戸の町の始まりから身分制度、教育、お金、吉原に髪型・着物のファッションにわが銭湯のこと等々が簡明に解説されてるんだなあ。そこで2~3抜粋して引用させてもらおう。

まあ昔、モノの本で読んだ事柄が多いんだが、新しい発見も見られて参考になること大でしたなあ。

そこでまずは江戸の町の広さから参ろうか。当時の江戸は東が亀戸で西は四谷、南は品川で北は千住あたりまでだったんだってね。そうすっと江戸のハズレだった亀戸は当湯から近い所だから、わが町・業平なんて片田舎のような場所だったんだねえ。そして「お江戸八百八町」なんていわれているけど、天明年間(1781〜88)には1770町もあったんだってさ。それに伴い人口も100万余だったというし、ロンドンが70万、パリで50万人程度のため江戸は世界一の大都市だったという。まったくすごい発展ぶりだ。

次いで身分制度だけど、いわゆる士農工商とランク付けされてはいたものの、実際は武士以外の農民、職人、商人の間には身分差はほとんどなかったんだって。身分制度では最下位だった商人が実際江戸の社会を動かし文化面を創り経済面でも裕福だったという。

まあ現代だって国の舵取りをする政治よりも経済界のお人たちのほうが一段と金持ちで、経済・文化の推進役でもあろうから江戸時代そのままかもね。

そして面白かったのは江戸の食事だ。文面を引用させてもらおう。
「それまでの日本人の食事は1日2食が一般的。1日3食が定着したのは江戸時代中頃からだった。食事の中身は御飯に味噌汁、納豆にたくあん2切れぐらいが定番。毎月朔日(さくじつ)(※)や15日に焼いた小魚が付けば上等。しかし江戸の御飯は白米ばかりだったためビタミンB1が不足して脚気にかかる人も少なくなかったらしく、これを『江戸患い』と呼んでいたんだ。朝食は午前7時頃。夕食は午後4~5時で、これは武家も庶民もほぼ同様。当時はみんな早寝早起きだったんだ」となっている。1日3食が江戸の中期頃からだったなんて知らなかったねえ。エッ俺は知っていたって? オッホッ、そんな顔にゃ見えないがねえ。

そのほかいろいろ書かれているんだが、ここで江戸時代のわが銭湯に移ろう。まあ湯屋のことなら風呂屋のオヤジが折りに触れて知ったかぶりを披露しているけど、また改めて書いてみますわ。我慢して読んでよね。

「江戸っ子といえば風呂好きで有名だけど、まずは朝風呂に入り、仕事から帰って夕方また入り1日2回以上入ったといわれている。というのも江戸の町は湿っぽくて風が強く、砂ぼこりもひどいので体が汚れやすかった。中には1日5回以上も入る人もいて、そんな人は『羽書(はがき)』(今の入浴券)を利用していた」
〈銭湯へ羽書でいくは品がよし〉という江戸川柳があったな。

まあ、とにかく江戸時代の銭湯は大隆盛だったんだ。何せ慶長年間(1600年頃)には各町ごとに湯屋がありその数500軒以上にのぼったってんだ。今から400年以上も前のことだぜ。 エッ? 江戸の銭湯がすごかったことはよ~くわかったけど、それに比べて平成の銭湯はなんとなく活気がないようだけど、どうなんだって?

ウ~ン、 そういわれるとなあ、浴場数も900を割っちゃったし、アタシャ江戸に戻りたい――。

(※)朔日は陰暦で、月の第1日のこと


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 
昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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2008年12月発行/95号に掲載


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「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

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