
平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
〇月✕日
毎日見える30半ばのご夫婦に6才の男の子。雨が降っても風が吹いても3人で顔を見せてくれる常連さんだが、今日はお母さんと男の子だけでやってきた。
「オヤ、お父さんは?」
「パパは今日飲み会で遅くなるんだって」
「ホウ、飲み会? そりゃあいいね」
という会話が今日のイントロ。
それから30分ほど遅れてお父さんが見えたんだが、一足早くあがってきたお母さんにアタシャ一言。
「さっきお父さんが入ったよ。もうすぐ出てくると思うからちょっと待っていたら?」
「そう、案外早く帰ってきたのね」
そして間もなく予定通り? お父さんが出てきた。この若いご夫婦ね、お父さんは真面目そうなおとなしい男性だが、奥さんは明るく何ともユーモラスであり、まことに対照的なお二人だがとてもいい感じである。そして子供は奥さんに似たのか活発な性格なんだな。
さて、フロント前に家族が揃ったところでアタシがお父さんに話しかける。
「今日は飲み会だったんだって? いいねえ、で、どこでやったの?」
「ウン、向島のMっていう料理屋さん」
「M? 料亭じゃないか。いい所でやったんだねえ」
「そうですか。会社の人に連れられていったんだけど」
実はアタシも業界の仲間と「うまいものを食う会」という懇親会をやっていてね、ゼニもないくせに折りに触れて分不相応な料亭などで会合をもつことがあるんだ。向島や浅草の三業地もご多分にもれず不況のあおりで、かつての一流といわれた料亭が比較的安価な費用で宴席に開放してるんだな。
超一級といわれた浅草のFの女将が言ってたよ。
「以前は会社の接待などで頻繁に使ってくれたんだが、今はもうほとんど使わなくなったし、政治家のセンセイも顔を見せなくなった。だからもう一見さんお断りなんていうことをやっていられる時代じゃなくなったし、一般の人にも使ってもらおうとランチタイムもやってんの」
というようなことで、その昔ならとても敷居が高かった料亭がアタシらごときでも時々は利用できるようになったんだよね。
さてさてまた話を戻そう。
「向島のMでやったんなら芸者も呼んだんだね」
「ウン、おばちゃんのような人と若い女の子が2人ほど」
「じゃ、猫は入んなかったんだ」
「猫?」
「三味線のことよ」
「三味線はなかったけど女の子がどんどんお酌をしてくれるんだ」
「じゃコンパニオンを入れたんだね。芸者ってね、地方(じかた)と立方(たちかた)っていう組み合わせでね。地方は三味線を弾く人で姐さん株、立方は踊る人」
アタシャ若い人に芸者の講釈を始めたよ。と言ったって、アタシだってろくすっぽ芸者遊びなどしたことがないんだからいい加減なもんさ。
アタシが知りもしない芸者談義? をしているとそれまで黙っていた奥さんがちょいと口を開いた。
「パパたちの宴会ならあたしだって芸者で出られるわよ。着物を着てさあ、そう名前はヒヤ奴がいいわ。あたしの名前はヒヤ奴……」
「ウッホッ、ヒヤ奴かあ、そりゃいいや。うまいうまいッ。そうすっと浴場組合の宴会はフロ奴にオケ奴だな」
大笑いである。
それにしても芸者の話が出たら即座に「ヒヤ奴」なんてジョークを繰り出せる奥さんのしゃれっ気っていいねえ。アタシャこういうセンスって好きだなあ。お父さんもニヤリとしていたが、子供はつまんなそうな顔をしていたよ。ヘんな話でいつも主役になるボクの出番がなくてゴメンネ。
「さ~て帰りましょう。 お休みなさい!」
明日また待っていますからね、ヒヤ奴の姐さんご一行サマ――。
【著者プロフィール】
星野 剛(ほしの つよし)
昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。
【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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2008年6月発行/92号に掲載
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「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
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