平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
もう60は超したであろう男性。A県の人で農繁期に帰郷される以外、1年の大半は東京での単身生活だという。ぼくとつな雰囲気に温かみを感じる方である。

だが、この方のしゃべる東北弁はちょっと難しい。当湯(うち)へ見えて10年にもなるんだがA県の農村なまりそのままである。方言は故郷の勲章であるから何も中途半端な東京言葉に直す必要もないと思うが、早口でしゃべられると当方に通じないこともままあるんだな。

しかし通じない部分が多くてもアタシャ、ニコニコと聞いている。ニコニコと聞いていりゃあ、この人の温かみは十分伝わってくるから、内容はちゃんと合うんだ。

いつも綿入れ半天(はんてん)を着込み、唯一の楽しみだという晩酌で赤い顔をしてにこやかに入ってくる。
「もう花見はしたの?」
「ナモ、こなんだバサマ(母親)が死んだんだがや、だっけシッチュクンチ(四十九日)の間は花見もだめってがんさ」
「そう。喪中じゃ派手な振る舞いは慎みなさいってことですな」
「ンだ……」
「ついでにお酒も慎んだら……」
「ナモ……」
赤い顔をクシャッとされた。そしてニコッと――。

話によれば、この人と一緒に単身上京で働いてる人の中には都会の派手さに染まり、パチンコ、競馬などのギャンブルにのめり込んで故郷に帰れなくなった仲間もいるらしい。そんな中でこの人のように、方言を崩さず、奥さんの手作りであろう綿入れ半天を愛用し、故郷のにおいをしっかり守っている姿を見ると、アタシャ「いいなあ」と思っちゃうんだ。

お客さん、わかりづらくてもいいから、いつまでも故郷(くに)の言葉でしゃべってよね。

〇月×日
「ダンナさんはダンスが好きなんですか?」
夕方、60半ばの奥さんが湯上がりでフロントへ聞いてきた。
「ダンス? いや、ダンスは苦手だなあ。でも、どうして?」
「だって、ダンス音楽がかかっているから好きなんだと思ったの」

なるほど有線放送だな。有線はいつも歌謡曲だから、たまには雰囲気を変えてみようと、今日は柄にもなく「社交ダンス」なるチャンネルに合わせていたんだ。

「それにしても、ちょっと聞いただけでダンス音楽とわかるなんてすごいですね」
「あたしね、若い時Sでダンサーやってたことがあるのよ」
「あの上野のSで? そう、それじゃあプロだもんねえ」

Sは下町の一流ダンスホールだった。アタシもその昔、有名歌手が出演するってんで、仲間と酔った勢いで繰り込んだことがあったなァ。ウン、思い出したよ――。

そんとき酔狂なおばちゃんがアタシに踊ろうといったんだ。で、申し込まれたら敵に後ろは見せられない。若かったアタシはおばちゃんとガップリ四つに組んだ!?

そしたらおばちゃんのたまった。
「姿勢は握りこぶし1つぐらい開けて組むと先生がいいましたよ」
ホウ、センセイがねえ。じゃ、しゃあない。アタシャ握りこぶし3つ離れて動き出したよ。

ところがおばちゃん、またのたまうんだ。
「この曲はワルツですから3拍子じゃないんですか?」
「エッ、そんなこといったって、オレはこれしか知らねえもん」
おばちゃん、あきれたような顔をしたが、それでも4拍子でワルツを1曲、踊っちゃったっけ。

考えりゃあ、下町のがさつな風呂屋のオヤジとダンス――。これどう見ても似合わねえよなあ。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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2002年4月発行/55号に掲載


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「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫