平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
夕方、若いカップルがさりげなく手をつないでお見えになった。初めてのご様子だ。
入浴料、時間の打ち合わせと型通り進んで東西の脱衣場へお入りになる。フロント前で小さく手を振り「バイバイ――」。しばしの別れですな。
ところがすぐ男性がフロントへ出てきた。
「オーイ、何時に出るんだったっけ?……」
呼ばれた女性もサッと出てくる。で、時間の再確認、そして小さくバイバイ――となったんだが、別れた途端今度は女性の番だった。
「ちょっとォ、シャンプーがないのォ……」
いやはや。バイバイが都合3回になっちゃった。
考えるとフロントは無粋なとこですなあ。いつも一緒にいたいお二人をいや応なく左右に別れさせてしまう。ねえ――。できるもんなら「ご一緒にどうぞ――」って言いたいよ。

そこでバイバイのお二人だが、入浴1時間余り、打ち合わせた時間通りきっちりお出ましになった。
「やっぱりうちのお風呂よりいいわねえ」
「ウン、いい風呂だった。気持ちいいよなあ」
フロント前で再会? の会話である。アタシに言ってるわけじゃない。ごく自然にしゃべってるんだ。しかし「いい風呂だった」の一言は風呂屋のオヤジにとって値千金、フロント泣かせのセリフさ。アタシャ聞いててすっかりうれしくなっちゃった。

近年、銭湯利用者の減少傾向は風呂屋のオヤジを多分にショボつかせているが、そんな中で、このような内風呂育ちの若い人たちが、折に触れてノレンをくぐり「湯」を楽しみに来てくれる。
銭湯を知らなかった世代が、銭湯のよさを発見してくれたんだ――。アタシャそう解釈し「期待にこたえなきゃいけねえな」と真剣に考えちゃう。
バイバイ――を見たら気合が入ってきたぞ。

〇月×日
また泣いている。とにかくよく泣く子だ。3歳の女の子で、両親と時折お見えになるのだが泣かないで帰ることはまずない。風呂が嫌で泣くのではない。自分の思い通りにいかないから泣くのだ。
今日も例によってエ~ンエ~ン。アイスクリームを2本買ってくれないから……が、その理由。
「泣いちゃダメッ!」 父親が周囲の手前もあってか少し声を荒らげるや、さらに1オクターブ泣き声が上がってくる。泣いているというより、声を張り上げたに過ぎないのだが、こうなっちゃうともうお父さんは怒ることができない。
「しょうがないなあ」で簡単にギブアップ。1本目がまだ残っているのに2本目を与えてしまう。

つまり泣き声に屈服してしまうのだ。これでは「泣くことが要求貫徹の手段」と教え込んでいるようなもの。だから、親が少しぐらい怒っても子供は先刻承知で「へ」とも思わない。おそらく家庭内でも主導権は子供が握っているのであろう。

「コラッ、泣いてばっかりいると、もうお風呂へ入れてやらねえぞっ」
アタシャ親のスキを見てちょいとしかりつけた。泣き虫っ子、泣き声をピタッと止め、三白眼でじろっとにらみやがった。ウーンきつい目だ。迫力あるわい。アタシの文句だって「へ」とも「フ」とも思わねえや。

甘やかし過ぎたツケが今きている。当分泣き声に振り回されるのも仕方があるまい。
「お父さんよ、かわいくてしょうがないんでしょうが、早く子離れをするんですな。家庭内で本気で怒ってご覧なさい。子供を弱虫でわがままにするのは100%親の責任ですぞ」
アタシャ、フロントで一人ブツブツよ。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1997年12月発行/29号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫