平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
週に1、2回、80ほどのおばあちゃんを囲んで3人連れの若い女性がお見えになる。都合4人。おばあちゃん、お母さん、娘さんの3世代にお見受けするんだけど脱衣場から聞こえてくる会話が、世代を超えた友達のような雰囲気で、なんともいい感じなんです。

そしてね、このご一行様は皆さんそろって美人なんですな。

エッ、だからどうしたですって? いえね、別に美人だからってフロントで見とれてるんじゃありません。実はね、皆さん方の入浴風景がアタシには銭湯入浴の一つの構図のように見えるんです。

つまり、この3世代の皆さん方は同居しているわけではなさそうなんですな。そして、それぞれ内風呂をお持ちなんですが、こうやってそろってお見えになり、おばあちゃんを中心に家族団らん的に湯を楽しんでいる光景は銭湯ならではだと思うんですよ。

狭い内風呂ではとてもこうはいかないでしょう。

ところで時々、脱衣場から「あたし、うちに風呂があるんだけど……」という中年の人の声が聞こえてきます。銭湯へ来るのに言い訳をしていますが、古い人にはいまだに銭湯が内風呂の代わりという意識が強いんですな。けどね、現在のお客さんの3割以上は内風呂の人なんですよ。だからアタシャ言うんです「内風呂はお茶漬けで銭湯は専門料理なんです」とね。

そこへいくと銭湯を知らずに育った若い世代は内風呂の有無に関係なく銭湯は「湯を楽しむ場所」と位置付けているようです。

今、風呂屋のオヤジの願いもそこなんです。古い銭湯のイメージを払しょくし、家庭風呂では到底味わえない街のリフレッシュゾーンとしての「銭湯のグレード」を認識してもらいたいのです。

アタシャご一行サマの入浴風景にうなずき、銭湯は湯のぜいたく処なんだと1人でリキんでます。

〇月×日
6時のフロント。静かな感じの青年が遠慮がちに聞いてきた。
「あの~、昔、お風呂屋さんの組合で、法的な問題から行政訴訟を起こしたことがあったと聞いたんですけど、わかったら教えてほしいんです」

青年はA学院大学の法科3年で卒論に使いたいという。ソツロンねえ、行政訴訟かあ。えれえ難しい問題を持ってきたな。大体フロントってえのは、どこぞのダンナがカラオケに凝ってるといったタアイのない会話が主流なんだよな。ウ~ン、話がカタイねえ。

そこで「アンタの話は風呂屋のオヤジにゃ難しすぎる」と断りゃあいいんだが、アタシがまたヘンなとこで気取っちゃうんだな。知りもしねえのに知ったかぶり。

「組合の行政訴訟か。ウン、前にあったよ」と、いかにも簡単な問題といわんばかりの態度に出ちゃうんだ。悪いクセだよ。だから学生さん「ぜひお願いします」って目え輝かすじゃねえか。ま、ものには時としてハズミもあるか。

で、しょうがねえ。学生さんをアタシの住まいへ呼び、分厚い公衆浴場史をヒモといてゼミナールさ。

浴場組合の行政訴訟は過去に数件ある。いずれも昭和30年代の物価統制令に関する料金訴訟だが、中には最高裁までいった判例もある。お上と争い一歩も引かなかった当時の風呂屋のおやじは気骨があったんだねえ。アタシなんか常連のおばちゃんに「ダンナッ」と声高に呼ばれただけでビクッとしちゃうもんな。

さて学生さんだが、モノの本に目を通し、アタシのいい加減な説明にもキチンと耳を傾けてくれたのである。およそ小1時問、「勉強になりました」とニコニコしながら帰っていったが、現役の大学生にアタシの能書きが役に立ったのかねえ。もっとも風呂屋のオヤジだって現役だ。青年はA学院大、こちとらバン大(番台)――。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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2000年12月発行/47号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫