平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
「シャチョウに聞いてみようと思ったんだけどさ。銭湯ってのは昔は混浴だったんだってねえ」
この方はこう切り出した。アタシをシャチョウと呼びなさる。だからって、別に尊敬しているワケでもない。愉快な中年の男性である。

「混浴? ええそうですよ。入(い)り込み湯と言ってね、江戸時代から明治のころまで続いたようですよ」
アタシもシャチョウと言われる手前、なけなしの知識をひけらかす。

「フーン、流行(はや)っただろうなあ。今だってやれば流行るよなあ。シャチョウんとこさ、真ん中の仕切りをとっぱらっちゃいなよ、そうすればオレ毎んち来るよ、ウッフッ」
「だけどそれじゃあ、おたくが毎んち来てくれても、女のお客さんはだれも来なくなっちゃう」
「ウッフッ、そうなるか、やっぱりだめか・・・・・・」

混浴――『公衆浴場史』にはこう書いてある。鎌倉時代のころから上流階級で客の世話をする美女が現れ、浴客とも入るようになったのが混浴の始まりで、それ以来、浴客男女は混浴になんの不思議も不安も感ずることなく、嬉々として入浴するようになった――キキとしてだってさ。

江戸時代も混浴が当然の風習だったらしい。湯女(ゆな)風呂の出現がそれに拍車を掛けたようで、さすがに幕府も「風紀上捨て置けず」で再三禁止令を出したというが、何せ嬉々としちゃってんだから、おいそれといかないよねえ。それで明治33年ごろまで一部に混浴が残っていたということだ。

こんなことも書いてあった。
「混浴は悪い風習ではない、みだらなものではない、厳粛なものだ。しかし今の人は心が乱れてきいたからいけないのだ」。でもねえ――。

〇月×日
開店早々に現れたダンナ。もう70を過ぎたであろうか、R業界の組合長をなさっている。「おや、随分早いですね」
「ウン、組合の用で出掛けてきたんだが、つまらん用事ばっかりで参っちゃうよ」
あーあ疲れたといった表情。ご苦労様です。

「ところで、あんた今、組合長をやってんの?」
「いえいえ・・・・・・アタシは・・・・・・」
「でも前にやってたんだろ? そう聞いたよ」
「いえいえ・・・・・・そんな・・・・・・」
どうでもアタシを組合長にして、同病相憐れもうってコトですかな。

「そうかい、でも風呂屋さんの組合ってまとまってんだよねえ。まとまってる組合はいいよ」
そうつぶやいてご入浴。何かとご苦労様です。

そこで、よそ様の組合長さんからお褒めを頂いたわが組合ですが、確かにきちんとしています。

現在1400軒が浴場本部を中心に26支部、63組合に組織されているんですが、業界のさまざまな問題がお上とつながっているもんで、目的意識の共有とでも申しましょうか、結束も固いです。ヒラ組合員が組合長よりエラソーにしているような雰囲気もあり、ま、一座みたいなもんです。

そして組合の歴史がまた古いんです。モノの本を繰ってご説明しますと、近代的組織としては、明治40年に1000軒の風呂屋を統合して「東京浴場組合」が発足してるんですが、さかのぼれば江戸中期の文化7(1810)年に幕府の公認組合になってんです。これがわが組合のルーツですな。今から188年も前です。当時すでに10組合、520軒の規模だったというからスゴイでしょ。

それに引き換え平成の銭湯、ちょっとふがいないです。「江戸に戻りたい」と言っても始まらないし、頑張んなきゃねえ。応援してくださいッ。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1998年10月発行/34号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫