平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』 のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日

風呂屋は空港=エアーポートである。ちょっとキザだが、そう思っている。さまざまなお客さんがランディング(着陸)してくる。しばし翼を休め、エンジンを調節し、フライトしていく。そして、フロント(番台)は、着陸された方々が快適なひとときを過ごせるように管理するコントロールタワー、つまり管制塔である。そうなりゃ風呂屋のオヤジは、管制官。これもかなり気取っているが、そう思うようにしている。

そこで、「いらっしゃいませ」からスタートする管制官の勤務日記を書かせていただこうと思った次第なのである。題して、「風呂屋のオヤジのフロント日記」ということだが、どのみち鉛筆なめなめだからたいしたことが書けるハズがない。ま、笑いとばしてください。

〇月×日

8時、靴がなくなったと小学校6年の坊主がフロントへ舞い戻ってきた。
小さいころから来ている子供だが、なかなかのキカン坊で、アタシにしょっちゅう怒られている。しかし、やんちゃではあるが、根は素直ないい子である。

靴は入口に脱ぎっぱなしだった、という。
「だから、いつも下駄箱へ入れろっていってんだろっ。自分が悪いんだからはだしで帰れ!」とはいってみたものの、そうもいかない。

で、空いてる下駄箱を順に探してみたら、ちゃんと入っているではないか。ほうり出したままなので、だれかが入れたのだろう。いたずらではなく、奇特な方の、「きちんとしろ!」という警告の意味合いを含めたご親切と解釈したい。
「今度からしっかり入れるんだぞ!」とアタシ。
「ハイ……」しょんぼりとキカン坊。

一件落着で、再びフロントへ帰任し、なんとなく昔の下足番を思い出した。最近は、よく古いことを思い出す。年のせいかもしれない。娘に「ボケの前兆じゃないの」と冷やかされるが「なあにもともと底が浅いんだ、ボケたところでしれてるわい」なんてうそぶいてはみるものの「ほんとにそうかな」と心細くもなる。そういやあ、近頃、物忘れも結構多いし……。やだねえ。

さて、銭湯に下足番があったのは、江戸時代から昭和26~27年ごろまでだろうか。アタシがこの稼業の第一歩としてワラジを脱いだ銭湯に、幸か不幸か下足番があったのだ。当時は、もう、9割方の銭湯が、現在と同じ下駄箱に変わっていたのだが――。

下足番勤務はとにかく忙しい。何しろ1日平均800から1000人ものお客さんの履物をさばくのである。それも、入るときと出るときの往復だから、その作業たるや大変なもんだ。

履物には2枚の木札が用意される。「いらっしゃい」とともに、1枚をお客さんに渡し、もう1枚は、下駄箱なら「下駄棚」の同じ番号のところへ履物といっしょに置くのである。お客さんが帰るときは、その逆になる。つまり、札を受け取って、棚の番号と照合しながら、履物をそろえて出す。

夕食後のラッシュアワーなど2人でやっても、てんてこ舞い。アタシャ、一日やって、もう、げんなりしちゃったけど、「関白秀吉だって初めは、信長の草履(ぞうり)取り」なんてえらいもんを引き合いに出されて慰められたっけ。

しかしねえ、それから40年たっちゃったけど、こちとらいまだに草履取りから出世できない。だって、今日も、子供の靴の世話をしているぐらいだからねえ。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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『1010』14号(1995年4月発行)に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫