平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


「イタの間(流し場=洗い場)に金が落ちてるから拾ってこい!」

さて、この言葉の真意やいかに……?

ところで、なぜ流し場をイタの間と呼ぶのかと言えば、その昔流し場の床は板張りだったからである。掃除は傘の竹の骨で行った。戦前の言葉であるが、そのころ(昭和20年代後半)にも通称として残っていた。

当時は洗髪料が必要で、そのころは10円だった。お客さんは領収書代わりの「髪洗(かみあらい)券」を流し場に持ち込んで洗髪をする。見習いや若衆が見回りと称して流し場の乱れを片付ける際に、券を回収するシステム。しかし本音は、無料洗髪をする人や隠れて洗濯する人を摘発するのが目的なのだ。そのような人を見つけたら、注意して料金を払っていただく。この収入がばかにならない。全回収券の1割が若衆にフィードバックされるのだ。「イタの間に金が落ちてるから……」とは、無料洗髪者を見つけて料金をもらってこい、という意味なのである。豆腐1丁、コロッケ2個、コッペパン1個が10円だったころの話だ。

当時の浴場楽界には、「ヘヤ」と称する睦(むつみ)会、今でいう人材派遣事務所があった。ヘヤに所属しているのは、小僧から銭湯修行を積んでいたが、諸般の事情により独立を待たずにやめていった人たちだった。ヘヤの人たちは銭湯の仕事を心得ているから、人手不足が生じた銭湯にとっては、重宝な存在だった。ヘヤから銭湯に派遣されて、仕事に就くことを「ハマる」と言い、派遣された人のことを「ハマリ者」と呼んだ。

あるとき職人風の若衆が、「番頭のヘヤに上がりたいのだが、教えてもらえないか」と訪ねて来た。応対に出た就職間もない小僧は、ためらいもなく自分たちの部屋に案内したが、訪ねて来たほうも案内したほうもしばらく無言で、目を白黒の直立不動だ。「ヘヤに所属したいので場所を教えてほしい」と訪ねて来た人を、自分の部屋に通してしまった、ウソのような本当のお話。

こんな話もある。早朝、オヤジにたたき起こされた。「イタの間が白く汚れている。よく流してこい!」。つまり昨夜の流し場掃除に用いたクレンザーが残っている、という注意なのだが、それを聞いたある見習い小僧、脱衣場に行くなり、バケツでたっぷり水を流してすまし顔。それを見てオヤジが腰を抜かした。「イタの間」と「板の間」を間違えたお粗末なお話でした。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
銭湯マップはこちら

今回の記事は1998年10月発行/34号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)