平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


戦後の銭湯パワーを耳にして数年後の昭和27年3月、両親には内緒で兄貴から借りた千円札1枚を握って、私は汽車に乗った。巻駅発6時52分、乗り換えで上野着16時20分。料金は普通列車510円、手荷物託送(チッキ)1個で越後のシンボル、弥彦山を後にした。3月の越路は雪の残る寒い朝だった。

富山、石川両県からも希望を抱いて続々上京していたのだろう。北陸鉄道の羽咋-三明間(25km、70円)、富山立山線の富山-栗巣野間(30km、70円)、新宿-八王子間(60円)。北陸各県から10時間前後をかけての長旅は、夢と不安の交錯で時を忘れさせてくれたが、皆、同じ思いだったのだろうか。

弥彦山の姿が見えなくなると急に独りぼっちになった。見慣れぬ山々が次から次へと襲ってくる。上越国境の清水トンネルの中で、初めて涙が出た。

前の席に着いた親子連れは私と同年で、進学のため上京するという。進学と就職が、同時刻に一緒に上京し、運命の旅路が始まることになる。ちょっぴりうらやましくも感じたが、家出同然に郷を捨てた身だ、前を見るよりほかにない。トンネルに入る前は、車窓の景色で気は紛れたが、暗間の中では自然と向き合って話が弾む。

急に前の車両がざわめいた。途端に濃い煙が車内に渦巻いた。列車から吐き出された暖房用の蒸気釜の煙だ。上野と長岡の間は昭和20年に電化されており、機関車と客車の間に蒸気釜を搭載した車両(コヌ)を連結していたそうである。急いで窓を閉めたが、後の祭り。涙とすすでパンダの出現、大笑いの車中だった。

しかしそのときは、油煙やすすで泣き笑いの人生が今の今まで続くとは思ってもみなかった。銭湯を見聞しに上京したはずが、よいところだけ見せられて、そのままはまってしまった住み込み小僧の始まりである。先輩の若衆2人、女中さん3人、それに私が加わって住み込み従業員が6人で全員の前で紹介され、頭を下げた。汗が吹き出た。まず多くの目でジャブをされ、あごでカウンターされる。

「先が思いやられるぞ」

銭湯で働く番頭さんは給金8000円、女中頭5000円、女中さんと小僧さんが2000円、私は1500円で平均的だった。入浴料金は大人12円、洗髪料10円、流し20円、そんな時代に、私の銭湯奮闘記が始まったのである。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は1998年6月発行/32号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)