平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


終戦の前後、東京周辺からの疎開の波が、私の故郷に押し寄せていた。当時、国民学校初等科だった私は、疎開してきた家族との交友を通して、東京の様子がわかりかけていた。大工、酒屋、豆腐屋、薬屋などいろいろな職業の人たちがいて、その中に、風呂屋の家族もいたのだが、不思議なことにお父さんがいなかった。聞くと、「一人、東京で留守番をしている」とのことだった。

後でわかったことだが、銭湯の大半はレンタル営業(預かり株)で、戦火や災害時に店を守っていないと営業権を没収されたらしい。そうなると、元も子もなくなってしまうので、とうちゃんは、泣く泣く家族を安全な故郷に疎開させ、一人ぼっちで頑張ったのだ。

一方、かあちゃんと家族はというと、実家や親戚宅のわら小屋の2階や、馬小屋を改造した粗末な住まいで肩を寄せ合って上京できる日を待ちわびていた。よそ者や居候という扱いを受けていたようで、子供ながら気の毒に思っていた。

子供たちも、かなりいじめにあっていたようだ。食料品、衣類、酒、たばこなどの生活用品は配給制度だったため、お金があっても手に入らない。私の家は古くからの商家で、それら全般を扱っていた、いわばよろず屋で、疎開してきた家族とよく交流があった。

ある日、おふくろに頼まれて新聞紙に包まれた日用品を届けたとき、「上がっていきなさい」と言われ、コーヒーを出されたことがある。口にしたらものすごく苦かった。砂糖がない家だったのだ。

「ここの八幡様の鳥居はうちのとうちゃんが寄付したものだが、今じゃ誰も振り返らない。今に銭湯で復活したら絶対に振り向かせてやる。坊やのお母さんにはずいぶん助けてもらったから、何もできないけど、これ持っていきなさい」

当時としては珍しいローマ字が並んだ中古のジャンパーをもらい、私は毎日そのジャンパーで得意げにはしゃいだ。宝物だった。

このとき、故郷の人情のなさを悲しみ、銭湯を力説していたお母さんパワーは、どこから湧いていたのだろうか。このころから、「カアちゃんなくして、銭湯もたぬ」という精神が養われていたのだろうか。これだけ力説できる仕事とはどんなものか、私は不思議だった。そして、「一丁、やってみるか!」。お母さんパワーが私に乗り移った。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は1998年4月発行/31号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)