平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


自分の湯屋、相模原の大黒湯に値段が付いたことでこれを売る決心はついたが、新宿の松の湯のほうは購入金額も未決定。しかし周囲は見切り発車で動き出してしまった。金策のために神田の東浴信用組合を訪ね、組合幹部のお歴々の前で売買のこれまでの経緯をご説明したところ、私のほうの態勢が不備だったために、その場に不穏な空気が漂ってしまった。

「この件はなかったことにしよう。顔を洗って出直したほうがいい」
組合幹部の方々にこういわれ、急に血の気が引いた。めまいがし、頭の中がパニックになった。

実は信用組合を訪ねる前日に、吉野専務宅へ電話をし、浴場売買の経過と借入金のお願いをしてあり、専務さんへの“甘え”もあって、大丈夫だと早合点したことが災いした。大金の借り入れや物件の買い替えに孤軍奮闘など不可能で、保証人の有無が一番重要なのに、親分筋のない悲しさで、それをおろそかにしてしまっていた。

お先真っ暗で相模原に戻った翌日、南千住の潮乃湯の栃倉さんからお電話をいただいた。
私が帰った後、専務さんが松の湯オーナーの中島さんと栃倉さんに連絡し、売り値と借入額を決定、保証人の依頼までしてくださったというのだ。

一人ではどうにもならない世の中の仕組みや厳しい戒めを論してくださった吉野専務や中島さん、栃倉さんには、なんとお礼をいっていいやら、そして自分が情けなく、寂しさが残った。

“おれも人並みに親分をもっていれば・・・・・・”と思うのはこんなときだ。しかし、松の湯購入を機に、栃倉さんと浅野さんという、立派な親分筋の“判子親分(保証人の意味)”が私の後ろ盾になってくださった。今まで以上に働き、親分筋に孝行しなければ道は開けぬ。

相模原の大黒湯の売買契約もスムーズに終了、隣近所へのあいさつ回りに、送別会のお礼にと、あっという間に半日が過ぎた引っ越しの日当日、トラックに戻ると一緒にいた家族の者がだれもいない。立ち退いたばかりの大黒湯をのぞいて見ても、人影はない。

われに返って、お隣の中村さんの家に飛び込むと、みんな抱き合って泣いている。
「お風呂を人にやっちゃダメ!!」
「おばあちゃんの子になるから、父ちゃんだけ行って!!」
と、子供たちが哀れな姿で泣きじゃくっている。まわりもみんなもらい泣きで、二家族で抱き合って離れない。

しかし、今日中に契約や支払いといった、東京での手続きを完了させなければ、今度は東京に着いても、家に入れない。

中村さんのご家族の協力を得て、騒ぐ子供達を抱き上げ、生木を裂くようにトラックに乗せ、出発した。ああ・・・・・・こんな経験、もう二度としたくない。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2001年12月発行/53号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)