平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


身重の女房と二人三脚で若いお二人の仲人を無事やり遂げたころは、銭湯・居酒屋ともに予定通りの数字を出すことができ、勇気づけられていた時期である。

「おい!! 忙しいのも結構だが、命の洗濯でもすんべェー」
以前から地元のお客さんに誘われて困っていたが、とうとう断りきれず、一緒に出かけることになった。
「前に亡くなった中華料理店のマスターの未亡人が日本舞踊の踊りの先生なんだ。これが結構な美人だからジジイ連中が習いに集まってモンキーダンスをやっている。そんだから俺たち若い連中を歓迎して月謝も半額にしてるんだ」

わずか5分くらいの道のり。座敷には急ごしらえの舞台があり、5~6人の老人連中がモンキーダンスのけいこ中で騒がしい。
「アーラッ、お久しぶり!!」と奥からなかなかの美人がけいこを抜け出してのごあいさつ。首をかしげてみたが会ったことはない。

「ここんところ忙しかったんで失礼しました。どこかでお会いしましたか」
「お宅の大黒湯が新装開店したときに、お隣の中村さんがビラを持ってきて、宣伝してくれ! とたくさん置いていったのよ」
「それは知らなかった。大変失礼しました」
「イイのよ、教室に来てくれたんだからおあいこよ!!」
まだ入会したわけではないのに困った方向に風が吹いている。

聞けば名古屋の祖で西川流の流れをくむ踊りだという。一応踊りのイロハを聞き、浴衣と小物一そろいを与えられ、皆さんのお仲間入りとあいなった。

週2回のけいこで、覚えた後から忘れるという最悪のパターン。頭の中はお店のほうへ向いているので踊りは空っぽだ。

そのけいこがハネると先生を含むご一行さんが私の居酒屋へ直行する習慣となった。遊びが商売に結びつく考えてもみなかった結果になり、“日本一まずい居酒屋”も軌道に乗ってきた。

昭和47年前後の東京の入浴者数は500人くらいで、「共通入浴券」なるものを発行。料金も40円を越え、山の手地区にはコインランドリーが出現したという。今、考えると第2期黄金時代が去ろうとしていたときで、新しい浴場経営の礎を迎えていたのだ。

札幌冬季オリンピックでは日の丸飛行隊が金・銀・銅のメダルを確保。日本中が沸いていた。田中角栄首相の列島改造で地価が高騰したのもこのころで、地元農家でも宅地の造成が急ピッチで進んでいた。作物を作らず、土地の値上がりを待ち、売れるタイミングを狙って“捕らぬタヌキの皮算用”を弾いている。どうりで、ヒマだから踊りでもしようというわけだ。

“果報は寝て待て”というが、頭を使わず、汗をかかなくて本当に果報が来るものだろうか?


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2001年2月発行/48号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)