平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


昭和43年の1月に相模原に越して、流し場のたるんだ梁(はり)や、つぎはぎだらけのタイルを急ごしらえで直し、ようやく10日に「大黒湯」の開店にこぎつけた。が、その夜、気の緩みってのは怖いもので、産み月を過ぎていた女房が産気づいた。“引っ越し、片付け、工事、開店”、と息つく暇もなかった強行軍だ。よく頑張ったものだ。翌朝、母子共々元気で長男が誕生した。

めでたいには違いないが、お店のほうが今いち活気がない。夜の10時でパッタリ客足が途絶える。東京と違って夜型人間が少ないのだから当たり前のことだ。周囲には借家や工事現場の宿舎がたくさんあるが、風呂はそろっている。彼らの生活の中に銭湯は問題外のことなので、夜の過ごし方を考えてやったほうがよさそうだ。

アパートも売り払っての再出発で、湯屋以外の収入はないから、借金200万円は、かなりきつい。売り上げは入浴料金27円で1日250人前後と当初の計画より低迷している。“堪え忍ぶ”か“仕掛ける”の二者択一を迫られた。苦悩の末に、“動”を選んだ。ターゲットを新住民に絞り、入浴への付加価値を高めることにした。

幸い玄関の両袖が空いていたので、片方をクリーニング取次店として閉店まで受け付けた。街のランドリー店は6時閉店の旦那商法だったので、これはヒットした。続いて男湯脇に当地には珍しいサウナを併設。現場の職人さんに重宝がられ、飲み物や下着類が売れるようになった。

調子に乗るようだが、ここで商売のリズムを崩してはもったいない。庭をつぶして、わずか4坪の縄のれんの店を出した。

店の特色をどう出そうかと女房に相談すると「相談なんて珍しい」と言いながら「“お酒は手っ取り早く飲ませ、安くおいしいツマミを早く出す”それを基本にあんたらしくアレンジしなさいよ」と知恵を貸してくれた。当時酒の一滴も飲めない女房が酒飲みの基本をいつ覚えたのだろう?

ともあれ、“手っ取り早い酒”は冷や酒(升酒)としたが、“安くてうまい肴(さかな)”が考えつかない。あれこれ悩んでいるところに、隣家の中村さんの爺っちゃんが、おみやげをぶら下げて遊びに見えた。
「珍しいブツが入ったから一杯飲むベェー、元気が出るジャ」
「なんだこりゃ」
「トンのレバーだベェー、動いてるだろう。キョトンとしないで包丁持って来な。生で食うんだよ。うまいぞ、癖になんベェー」

30過ぎて初めて見た「トン刺し」は、チョット野蛮だが、新鮮でなかなかの珍味である。「こんなレバーどこから入るの?」
「街外れの屠畜場のオッさんから、たまたま入ったんだナ!」
“おいしいツマミ”がこんなに早く見つかるとは……。鴨がネギを背負ってきた、とはこのことだ。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2000年4月発行/43号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)