平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


東京オリンピックから2年がたった、昭和41年の秋。中野区の銭湯「宝湯」で経営者が突然亡くなったので、代わりに経営をやらないか、との誘いがきた。それも急ぐという。

しかし私は当時29歳、独り身で世帯の準備など何一つない。すると「女房など、そこいらで見繕って連れてこい」である。

当時銭湯経営に際しては、信用ある親分、ひいき筋が後ろ盾にならないと借り株を持てないシステムになっていて、貸し手は借り手より後見人を主眼に置き、トラブルを防いでいた。仲立ちするのは周旋屋だ。私には歴とした親分筋がないことから、銭湯経営をためらっていたが、考える余裕など与えてくれない。

「今のご時世、湯屋をやりたいやつは行列している。声が掛かっただけでもありがたいと思え。お前さんのことは洗ってある。親類筋に栃倉理事長さんがいるじゃないか。持ち主にはそのハンコをもらってくればそれでよし」とまあこんな具合で、トントンと外堀内堀を埋められ、話を頂いてから1週間で、線香のにおいが残るかなり荒れた「宝湯」にたどり着いた。

路地一つ隔てて、源頼朝が奥州征伐の折りに武運を祈願したという宝仙寺がある。しかし、広大な敷地が商売には大きなハードルになろう、と直感した。さらに前には青梅街道。お客さんを遮ることになるので、商圈は両サイドしかない。先行き厳しい営業になるだろう。苦労して源氏を再興した頼朝さんにならって、私も宝仙寺に祈願しよう。

宝湯に着くなり、前の営業人、オーナー、仲介人と私で、契約書のサイン。「さあこれから創業だ。プラス志向で行きましょう」。昭和41年11月20日。結婚記念日でもある。

たとえ借り風呂といっても、店を構えるのは夢のような話だ。裸一貫の叩き上げが創業するのは数百分の1の確率。運と努力と、チャンスをつかむ環境がなければ成し得ない。そんなチャンスが突風のように現れて男と女を舞い上げ、銭湯に落っことしていった。

そのカアチャンはといえば、私にすっかりだまされて(だまされたふりをして?)兄たち一行と到着した。が、何から手を付けてよいやらわからず、その場に立ち尽くしていた。親類に銭湯をやっている人がいるから銭湯の存在は理解していたが、20歳そこそこのまったくのド素人なのだ。活字には表せないドタバタ劇の始まりだった。

数日後、兄たちは不安を募らせながら帰っていき、無我夢中の1週間が過ぎた。
「おれたち何か欠けてるよな」
「自分たちの意見が何一つ入ってないね」
「恵まれ過ぎてるようで、皆さんに感謝しなくちゃ」
「アッ、そうだ! 結婚式してない!!」


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は1999年8月発行/39号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)