平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


昭和27年の春、銭湯に奉公に上がった私は、先輩たちが親元への仕送りをしていることに驚いた。番頭さんは手取りの大半を飲んで打って、足りなくなれば前借りは当たり前、一方若衆たちはせっせと仕送りしている。嫁ぐ女性はまだよいとして、若衆は銭湯経営を夢見てこの仕事に就いたのだ。いつまでも実家に送金で、この先望みは叶うのだろうか……。もっとも後で聞いた話では、そのころの奉公人はおしなべて親元に仕送りしていたらしいが。

その点私は恵まれていた。生家は日銭の入る商家で、7人の兄弟がいる賑やかな家庭であった。両親は子供たちに「いつまでもあると思うな親と金、ないと思うな運と災難」と、事あるたびに言い聞かせていた。そのせいか兄弟たちはみな自立心旺盛で、私も親兄弟に負けじと懸命に働いた。いつか経営者になることを夢見ながら……。

そんな折、ひょんなことから、私は銭湯ではない業種の経営者に収まることになる。
昭和33年、街の映画館では石原裕次郎の人気が爆発。若者はズボンに手を突っ込み、足を引きずって、だれもが裕次郎気分で歩いていた。長嶋と杉浦がプロデビューしたのもこの年だ。私は二十になっていた。

そのころ、「流し」のお客さんに老練な博徒の親分がいた。そして「屋台のショバで空いてるのをアンちゃんにやるから、管理してごらん」と言うのだ。何を見込まれて話を振られたのか皆目わからないが、私も好奇心旺盛な年ごろだ。後々のことを考えず、二つ返事で引き受けた。

リヤカーを買い、大工さんに屋台を注文、屋号は「あづまや」とした。売り子も決まり、その月のうちに屋台のオーナーとなった。ショバ代なしで家賃は5000円、これは住み込み給金と同額だった(ただし流し代は別収入)。

経営は順調だった。半年もたったころ、周囲の同業者がその筋の人たちの妨害で営業できず困っているとのうわさを耳にした。私の「あづまや」は、親分の威光もあってか、なんら嫌がらせはない。しばらくの後、同業者から「オーナーになってくれ!」と頼まれ、引き受けることになった。すると次から次へと申し込まれ、あっという間に5台に膨れ上がった。自分の屋台を私に渡し、売り子になるというのだ。
「どうなっているのだ、このギョウカイは……」

風呂屋の番頭がこんな世界に首を突っ込んで、無事でいられるのか。不安がよぎらないではなかった。流し場で新門辰五郎系(本人談)の親分の背中を流しながら、話の内容をよく理解しないままに、見知らぬ世界への好奇心から踏み込んだ屋台経営の道。このとき私は、自分がとんでもない世界の真ん中にいることに、まだ気付いていなかった。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は1999年4月発行/37号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)