平成5(1994)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


東京に戦前2800軒あった銭湯も、終戦の昭和20年には約400軒が残っただけで、後は全部焼けるか使用不可能になった。ここから戦後銭湯が始まったのである。

そのころの銭湯は文字通り「イモを洗うような」ゴッタ返しぶりで、長蛇の列を入場整理しながらご利用いただいた。勤勉な風呂屋のオヤジたちは、もっと多くの人にゆったりと入っていただくために、安普請ながら続々と銭湯を再建していった。その数は、20年後に2630軒に達し、戦前の数にやっと近づいたと思ったらそこがピーク。後は内風呂の普及などで、銭湯の軒数は減少の一途をたどることになる。

それはさておき、戦後の「金なし物資なし」の時代に、20年間で2200余軒の銭湯が雨後のタケノコのように林立したわけで、ほかにこのような業種は見当たらない。しかしこれには特殊な銭湯事情があったのである。

東京の銭湯の9割は北陸地方の出身者で経営されている。先輩が後輩の面倒をよく見、協力し合ううちに、親分・子分・兄弟分の輪ができる。恩と労力で貸し借りを満たす、そんな絆が早期復興を成し遂げたのである。

今では考えられないような心意気と人間味を持った風呂屋人が、さてどのようにして育ってきたのか。日本全国の県民性を書き表した「出身県でわかる人柄の本」(祖父江孝男著、同文書院)から、新潟、富山、石川県の各項を抜粋して紹介しよう。

「新潟県(越後人)」。東京の風呂屋と豆腐屋には新潟県人が多い。どちらも地味で単調で、労働の割にはもうけが薄いが、現金収入であり、家族だけですぐに独立できる利点がある。地味で粘り強く、ひたむきにこつこつとため込み、名より実を取るタイプが多いのだ。かく言う私も、その越後の産である。

「富山県(越中人)」。酒もたばこもやらずひたすら働き、せっせとため込むその勤勉ぶりは、新潟県人も驚くという。県民意識が高く人間関係が緊密なのも特徴である。人の上に立つ人材も多い。経済観念は北陸随一だ。

「石川県(能登・加賀人)」。「他人を押しのけてでもという積極性がなく、ビジネスの場でも同僚や上司からはあまり頼りにされない、人のいいお坊ちゃんタイプ」とあるが、私が出会った石川県人たちはちょっと異なる。ニコっと笑って一言でスカッと人を切る。お坊ちゃんタイプはまずいないと見た。

以上の県民性をベースに、次号からいよいよ奮闘記に入ります。乞うご期待!


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は1997年10月発行/28号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)