駅から離れた裏路地の奥にポツリと灯る赤ちょうちん。
「らっしゃい」
いかにも職人風といった顔つきの大将が不愛想に包丁を握る。
「ビール、ください」
チラリとこちらを見た後
「ビール、一番さん」
そう言いながら冷えた瓶ビールを1本、コップを添えて目の前に置き、板場へ戻る。
狭い店内に流れる静寂。所在なさ気に店の拵(こしら)えを見回すと、まあまあ年期は入っているが隅々までよく掃除が行き届いている心地よさがある。
「このお店、古いんですか?」
ふと出た一言に大将の包丁が止まる。
「……爺さんの代からやってます」
朴訥(ぼくとつ)な大将がこちらも見ずにそう呟く。そこへ大分出来上がった酔客が3人入ってきた。機嫌がよいのか楽しそうにテーブル席に着くと
「大将! ビール。コップ3つね」
今日何度目かの乾杯が済むと、狭い店に不釣り合いな明るい声で、はた目も気にせず盛り上がっている。聞き耳を立てていると、この店の常連でもないらしい。
「大将さ、今時こんな古い店じゃ、はやらないよ。もっと今風にしなよ」
「メニューも若い人の好きそうな奴を勉強しないと」と言いながら、無邪気に笑って見せる。お酒も入って言いたい放題。
聞き流しながら黙々と仕事をしていた大将が初めて顔を上げた。
「帰ってください」
「?」
「うちはこの町の人のためにやってきたんです」

前振りが長くなりましたが、今回紹介する「月の湯」は、そんな雰囲気のご主人が営む銭湯です。

路地を入って行くと現れる月の湯

「お風呂屋さんの役目って終わってると思うんです」
月の湯のご主人・福島一郎さんが発した言葉は重く、しかし現実的だった。

「家庭で入る風呂が当たり前の時代になって、銭湯が必需品でなくなってからスーパー銭湯が出てきた。それがさらに淘汰されて行く時代に、家族経営の銭湯がリニューアルしようとしている。でも、スーパー銭湯と同じことをしようとしても、資金力では敵わない。だから銭湯ってダメになってると思うんです」
その目は冷静に今を見ている。

福島さんは、祖父の代から銭湯を経営してきた筋金入りのお風呂屋さん。ご自身も物心ついた時から風呂屋で働いていたが、3年程前に越谷からこの月の湯へやって来た。

「昔の風呂屋の修業は、初めに下足番・傘番から始まって、釜焚き、流し(※番頭が入浴客の背中を流すサービス)と掃除。女の子だったら子供に着物を着せる仕事を覚えていくんです」
子供に着物を着せる仕事があったのか! と感心していると、フロントの大女将が「そうよ。親がお風呂入ってる間に子供をあやしたりしてたのよ」
町内が皆顔見知りだった時代だからできた風呂屋のサービス。
「昔は何もしなくとも風呂屋が儲かった時代。家に風呂がありませんから、みんな入りに来る。3年稼げば風呂屋が持てた時代もありました」
「流しがあった頃は流し代が湯銭と同じ額で、それを経営者と決まった割合で分けて、取っ払い(即日支給)で貰える。奉公人が何人もいたから仕舞い掃除も早くて、終わったらそれ持って遊びに行っちゃう」
銭湯が日常にあった古きよき時代から、今は非日常の時代へと変わった。

脱衣場の天井の青空が浴室の森林へ続き、自然感溢れる

「お風呂に入る前に体にかけるお湯をなんていうか知ってます? 下湯(しもゆ)っていうんです」
銭湯に入る上で最も初歩的なマナー。汗や埃をお湯で流し、大事な所をきれいにしてから湯船へ入る。だが、今はそれさえ守られないこともある。銭湯が日常だった頃は、一緒に入る親や周りの大人が教えていたことだ。そして守らない人は意外と大人にも多い。
「背中に絵の描いてあるお兄さん達は入り方がきれい。手拭い一本で奇麗に体拭いて上がるよ。お勤めしてきてるからね」
ご主人はいたずらっぽく笑う。

西ヶ原、滝野川界隈には銭湯が数軒残っている。斜陽といわれる銭湯業界で集客の工夫を尋ねると「考えてないですね。一見さんが苦手なので。究極をいえば、西ヶ原4丁目のお客さんだけ相手にやっていければ。地元を最優先で」
話の最中に訪れるお客さんへの対応は、ぶっきら棒に見えて優しさがにじむ。冒頭で紹介した「お風呂屋さんの役目って終わってると思う」という言葉も、ひょっとしたらシャイな性格の照れ隠しなのかもしれない。

「終わっている」と思いつつも、なぜお風呂屋さんを続けるのか?
「風呂屋が好きなんでしょうね」
この一言がお風呂屋さんを続ける原動力の全てに聞こえた。

さて、月の湯はご主人の銭湯愛を表わすように、隅々まで神経が行き届いており清潔感がある。レトロ感の中にも古びた匂いを感じさせないのは、設備を大事にきれいに使い続けているからだろう。

お湯は汲み上げの井戸水だ。
「水仕事してても手が荒れないんですよ。越谷の時は荒れたのに」
お湯に捧げてきた人生が嗅ぎ取る勘。肌によい水らしい。お湯に手を入れてみると確かにあたりが柔らかい。

手足を伸ばして入れる湯船。湯あたりも柔らか

毛穴を締めて上がりたい人には嬉しい水風呂。隣は薬湯

「せっかくなんでお湯に入れてください」と入浴料をカウンターに置いた時、それまでの真剣な顔つきと打って変わったご主人の嬉しそうな笑顔が印象的だった。
(写真・文:銭湯ライター 三遊亭ときん


【DATA】
月の湯(北区|滝野川一丁目)
●銭湯お遍路番号:北区 36番
●住所:北区西ヶ原4-29-1
●TEL:03-3910-0682
●営業時間:15時半~24時
●定休日:月曜
●交通:都電荒川線「滝野川一丁目」駅下車、徒歩5分
●ホームページ:–

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手入れの行き届いた浴室

ピカピカの椅子と桶

体を冷ますのにベストなポジション

ふらりと顔を出す看板猫のハクちゃん

お湯とずっと向かい合ってきた鏡

女湯ではさり気なく体の心配をする心配り

裏から見た煙突。凛々しい