平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


江戸の銭湯は、幕府開府直後「伊勢の与一」が第1号を開店したところから始まる。江戸時代、入浴様式もいろいろと変遷し、蒸し風呂から男女入込(いりごみ)湯となったものの風紀上よろしくないということで廃止され、その後も江戸大火、湯屋取り潰しなど次々と憂き目に遭った。うまみの薄くなった銭湯は、金銭に目ざとい関西の主な経営者から裏方であった湯屋番に譲渡され、北陸人が表舞台に登場することとなった。北陸人の実直な人間関係と勤勉さによって銭湯は生き残り、銭湯界に北陸出身者が多数を占める現在の下地が出来上がった。

明治に入ると越後の小林金吾氏、加賀の大丸氏、能登の寺田次郎作氏、富士武松氏、越中の綾部斉次郎氏などが登場。この方たちが現在記憶される数少ないルーツと思われる。その門を叩いた人達により、その後の一族一派が形成されることとなる。

さて、銭湯をちょっと粋な言葉で「オブヤ」というが、オブヤには江戸時代、湯屋株の譲渡や名義の賃貸などさまざまな仕来(しきた)りがあった。それに端を発する親分子分の関係、自分株、借株など細やかな取り決めはその後も続き、出身地ごとの絆の強さを示す名残となった。

大正・昭和に入り、関東大震災・太平洋戦争と時代が激動すれば、銭湯も燃料不足となり再び受難の時代を迎える。やがて戦争が終わると公衆浴場法が施行され、再び銭湯に活気が戻った。神武・岩戸景気などで世の中が沸きかえれば、銭湯の数もピークに達し、なんと都内で2630余軒の大盛況。そして、昭和38年ケロリン桶が登場、流し場にコーンと響いて、東京オリンピックへと突入した。

銭湯界が活性化すると出身地ごとの絆はさらに深まり、同時にさまざまな問題も噴出した。「燃料よこせ」「値上げが生ぬるい」「サービスの均一化」など、問題が起きるたびに主導権争いが勃発。自然な成り行きで一族一派が連帯し、腹巻に鉢巻姿のオヤジさんたちの出番となった。北陸銭湯人は各グループごとに人を動員し、主導権争いは熾烈を極めた。

一般的に「銭湯のイメージは?」と尋ねると「癒し、温かい、ぜいたく、疲労回復」など、穏やかな印象をお持ちのようだ。しかし、業界内はオイルショックによる重油の高騰など「事が起こる」と、普段はおとなしいオブヤのオヤジも沸騰した。「おらが国」の有力者を押し立てる姿は銭湯のイメージにそぐわないが、湯船の裏では一族一派や各ブロックの有力者の思惑や人情がからみあい、抱腹絶倒のさながらプチ三国志の様相を呈した。

高度成長期、日本の国同様にオブヤのオヤジの世界も熱く沸騰し、元気印の“戦湯界”と化したのだ。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2004年4月発行/67号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)