平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


銭湯三国志は銭湯人のルーツを探り、その気質や心意気がいかに銭湯文化の盛衰にかかわってきたかを述べることが目的で連載を開始した。ルーツの大半は加賀・能登、越中、越後のいわゆる北陸3県プラス越前の、昔風に言えば「裏日本」である。したがって連載でも紙数の多くをそれら地域の県民性に費やしてきた。しかし業界内には、そのことに対する異論も多い。あいやしばらく、北陸人だけが銭湯のルーツではない、と。そのとおり。北海道、岩手、福島、山梨、熊本……そして地元東京。北陸以外にも、実は出身者が多いことを明記しておきたい。

そして多数派である北陸人も、2代目3代目ともなれば「県閥意識」は薄くなる。東京の銭湯人は今やそういう時代に入った。よくも悪くも「県閥意識」が業界の切磋琢磨、活性化に寄与してきたことを知っている筆者からすると、「県閥意識」の衰退は同時に業の精神的衰退の一因であるようにも思える。

戦前2800軒あった銭湯が、終戦のとき400軒生き残り、その20年後に2680軒のビークを迎える。それが今や1000軒に減少して全く意気の上がらぬ惨状になろうとは、当時誰も気付かなかった。その原因は今から考えると、昭和30年前後の銭湯バブル期における急激な軒数増加と無関係ではない。東京近郊から思わぬ参入者が現れたことだ。

戦後の農地改革で取得した土地の運用を思案していた新地主が、銭湯側から投げた賽(さい)を受けた格好で参入してきたのだ。田んぼの真ん中に銭湯を開く。間髪入れずに理髪店、洗濯屋、食品店、不動産屋が辺りに開業し、門前町ならぬ「湯前町」が誕生して賑わった。当然周囲の地価は上昇する。新地主は銭湯の集客力に驚愕し、土地を貸すくらいならと日銭の魅力で直接、銭湯経営に乗り出す者が続出したのである。

当時元気な銭湯人は、「支店」の建設用地を血眼で探していた。銭湯設置には距離制限があり、どこでも開業できるものではない。リサーチは隠密裏に行われ、誰かがすでに申請していれば、その人に降りてもらうか買い取るか、熾烈な駆け引きが行われていた。北陸銭湯人に混じって、新地主や異業種からの転業組がこの争いに加わった。

しかし銭湯右肩下がりの今日、当時の参入組の多くはいち早く他業種に転業してしまった。東京出身の銭湯人には江戸期からのれんを守ってきた生粋の業者もいるが、業界人やお客様とのしがらみを持たず、世の流れに敏感に対応できる新規参人の人たちもいる。彼らをうらやましく思うこともあるが、湯上がりの笑顔が楽しみでのれんをかけるのが筆者の日々である。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2005年12月発行/77号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)