平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


今回から東京の銭湯経営者のルーツである北陸3県、富山、石川、新潟、そしてプラス1の福井の県民性についてお話したい。福井が「プラス1」である理由は、大阪の浴場経営者に多いけれど東京では少数派だからである。

まず富山。祖父江孝男の『人柄の本』によれば、「酒も煙草もやらず、ひたすら働き、せっせと貯め込む勤勉家」が世間一般に言われる県民性で、勤勉といわれる新潟県人が舌を巻くのだから相当なものである。なぜ働き者になったのか。

周囲を北アルプス、立山連峰に囲まれて耕作面積が少なく、冷害が追い討ちをかけるためにお隣の石川、加賀百万石に比べてわずか十万石の禄高。その上加賀の搾取が厳しく、大きな暴れ川が3本、東の上杉謙信、西の前田利家に年がら年中攻め入られ、民は「働けるときに働いて貯える」しかなかったから、ずば抜けた勤勉さと人間関係の緊密さ、さらに学間を尊しとする気風を育んだのである。

現在の富山県域が越中として定着したのは8世紀中頃で、蝦夷(えぞ)地攻略の諸国の中で最西端であった。日本語を東西に分ける境界線が越後の糸魚川であるが、越中の餅の形が西の丸餅ではなく、東の角餅であったり、東西の2つの要素が混在する地域となった。

冬は雪が多いため、必然的に出稼ぎが盛んで、それも「行商」というスタイルが特徴で小間物、鏡磨き、蚕種(さんしゅ)、木綿などを扱ったが、中でも売薬は現在まで続いている越中の文化である。最盛期は専業の売り子が600人ほどいたという。また、鏡磨きの技術は神社仏閣に浸透し、後世、銭湯の人手確保の源泉となった売薬業からの転職も多かったという。

苦労を余儀なくされた祖先の血は、実楽の分野に幅広く受け継がれ、安田財閥の創始者、安田善次郎、アサノセメントの浅野総一郎、読売新聞の正力松太郎らを生んだ。紀平梯子、佐々淳行姉弟の祖先は越中大名の佐々成政侯である。また、特筆すべきは石川県の実業界、財界人に多数を排出していることだ。過去における搾取の歴史の怨念だろうか、皮肉なことである。

さて、北陸方言で面白い共通点がある。「り」と「る」、「い」と「え」、「し」と「す」の区別がないことだ。鰯はエワシ、神通川はズンズガワとなる。ご当地作家の源氏鶏太氏は住友に入社して数年後、新入社員のそろばん講師をしたときに「エンエチガエチ」とやって笑われたそうだ。雪国の困難な生活が、舌や唇の動きを極度に節約させたためだという学者もいるそうだが、東京に出た2世、3世が先祖の言葉を知らず同じ北陸人を笑うのは罪な話だ。


銭湯三国志は、次号より「石川」「福井」「新潟」「北陸以外」と県民性の紹介を経て「完結編」と続く予定です。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
銭湯マップはこちら


今回の記事は2005年4月発行/73号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)