平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


ある会で20年来ご一緒している銭湯探求家でロマンチストの山口利男氏(世田谷・藤の湯)は以前より「究極の銭湯はこれだ」というものはないかねと言っておられ、自らも郷里・能登から材料を集め工夫を凝らし、お客様への奉仕に努められている。

過日、氏より数冊の本を渡されたのだが、その中の一冊に目が止まった。「河竹黙阿弥」だ。作品数360に達する江戸末期~明治にかけ活躍した歌舞伎作者である。奇しくも黙阿弥の墓は我が家のお寺(中野区上高田・源通寺)の中心で祀られており長らく興味を持っていた。略年譜によれば河竹黙阿弥は文化13年(1816)2月3日、日本橋通り2丁目式部小路に父勘兵衛と母まちとの間に長男として生まれ、幼名を吉村芳三郎と名乗ったとある。父の勘兵衛は越前屋という屋号を名乗り、湯屋の株(営業権)の売買を生業とし、兼業で質屋も営んでいた。黙阿弥の生まれた1800年代、湯屋株の譲渡価格は300~500両、高価なものは1000両(※)もした。江戸期、庶民層は内風呂を持っていなかったため、湯屋は実入りが大きい商売として魅力があった。しかし、湯屋株数は523と決まっていたため、それを仲介する商売も成り立っていたのだ。

株といえば現在もその価値が重宝されている業界がある。大相撲である。大相撲では現在でも年寄名跡=親方株というものが存在し、親方になるにはこの株が必要とされる。この親方株は定数105、それに一代年寄の「大鵬」「北の湖」「貴乃花」を加え108しかない。力士をやめるとき親方株を取得していなければ「廃業」、取得していれば「引退」となるが前者と後者では大きな差がある。すなわち株を取得した力士は日本相撲協会の評議員となり、定年まで協会から給与が支給される。また、大きな収入を得ることができる引退興行は、親方株を持つ力士のみが持つ特権である。このような財産的価値を持つ親方株ゆえに数億円で売買されているという。

話はそれるが大相撲も銭湯同様、北陸と縁が深い。江戸大相撲は、津軽の鬼來崎岩右エ門(おにきざきいわえもん)が藩主の許可を得て始めた「越中相撲」を端緒に、富山から江戸へ多数の力士が送り込まれた。以後、横綱「梅ヶ谷」「太刀山」が誕生し、一時期は幕内上位を独占。それに刺激を受けた北陸各県からも大勢の力士が誕生し、「羽黒山」「双羽黒」「豊山」「輪島」「出島」などを輩出し大相撲発展の礎となった。

さて、大相撲の力士数は平成6年の943人をビークに16年秋には692人に減少。本場所も空席が目立ち、人気も下降気味である。やはり花形力士の少なさが原因か。銭湯同様、時代変化の狭間にある悩み深き業界なのだろう。

(※)米価を基準に算出してみると江戸中~後期の1両は現在の3~5万円に相当する


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2005年2月発行/72号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)