平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


はじめに

ひと口に日本の銭湯といっても、関東と関西では、施設の構造、経営感覚、入浴様式など、様々な点で違いが見られる。そして銭湯文化は外国にも伝わり、台湾では関東の、韓国では関西の様式を取り入れていまだに盛況を誇っている。これはどういうことなのだろう。

明治維新以後、江戸の銭湯を受け継いだ北陸人が東と西に分かれ、それぞれ異なる銭湯文化をつくり上げたが、それも利用者の好みの違いによるものなのか、その土地ならではの経営風土によるものなのかなど、多くの点で疑問が残っていた。もの好きな私は、これには何かある、裏を取れば何かが見えるはずだ、と数年前、まず現場への聞き込みから調べ始めた。

そしたらどうだ。案の定、面白い話が芋づる式に出てくる、出てくる。銭湯の内側が丸見えだ。しかし自分だけが知っているのではもったいない、これから皆さんにもお知らせすることにしよう。

ところで今年(※2003年)、東京は徳川家康が豊臣秀吉から拝領した武蔵の国で江戸を開墾し、江戸城を築いて以来、開府400年を迎えたという。400年といえば相当の大昔だが、一方で、江戸から現在まで“まだ400年しか経っていない”という気もするのはなぜだろう。ちょんまげが茶髪になり、わが銭湯業界では柘榴口(ざくろぐち)が湯船に取って代わりながらも、中にはしぶとく昔ながらの形を今に伝える輩(やから)が残っているからか。それはさておき、この『銭湯三国志』は、そんな江戸時代に始まる銭湯の歴史をつづる、火事とケンカ、汗と涙、笑いと艶(つや)、なんでもありの三国志。もちろん三国とは新潟・富山・石川県(当時の越後・越中・加賀・能登)のことだ。

さて、そんなお江戸に銭をもらって庶民に湯を供する者が現われた。天正19(1591)年の夏、伊勢の国、山田の生まれ、与一という男が諸国からの移住者でごった返す未開の城下町江戸で、人々に団らんと娯楽の場、湯屋を開いたという。折しも家康公が江戸城に入城した翌年のことだ。

「伊勢屋稲荷に犬の糞(ふん)」という言葉が示す通り、伊勢(三重県)出身の商人の多かった江戸で、銭湯もまた伊勢の男によって始められた、と書物に紹介されている(*)ことからも、この与一こそが江戸銭湯の元祖であることは確かなようである。

物語は、この後、入り込み湯(男女混浴)、湯女(ゆな)の出現、江戸大火による湯女大検挙、風呂屋200軒取りつぶしなど数々の事件や、関西の経営者と北陸出身者との血と汗の抗争へと移っていくことになる。

さあ、次回は男女混浴、湯女の登場だ!
(つづく)

*「銭湯の歴史」中野栄三、「浮世風呂、江戸の銭湯」神保五弥ほか多数


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2003年4月発行/61号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)