平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


上根岸に「御行(おぎょう)の松」という名所がある。見たい見たいと思いながら、いままで機会がなかった。

その日は、俳人正岡子規の忌日。場所は同じ根岸、きわめて好都合と、友達を誘って出かける。「子規庵」から御行の松はそう遠くない。その昔、母は俳人のことを俳諧師(はいかいし)と呼んでいた。
「『根岸の里のわび住まい』には上に何をつけてもおさまるのよ」と聞かされても子供の私にはチンプンカンプン、なんだかさっぱり分からない。

35歳で亡くなったという子規は、背骨に膿の溜まる難病に悩まされながら、何千句という俳句を残した人。忌日とあって座敷も庭も混雑していた。縁の下の蚊取線香から紫色の煙があがっている。庭には有名な子規の句、「鶏頭(けいとう)の十四五本もありぬべし」の鶏頭の花。縁側の棚からは糸瓜(へちま)が数本さがっている。

「子規庵」に別れをつげ、次なる目的地、御行の松へ向かうべく、根岸の町へ出る。道を掃いている女の人に声をかけ訊ねると「御行の松ならその角を左へ曲がって、二つ目の信号を真っ直ぐ行くと和菓子屋さんがあって……」と立て板に水のごとく早口で説明してくれた。分かったような分からないような妙な気分のまま、角を左へ曲がる。標識は、下根岸二丁目から中根岸に変わっている。柳並木の道にさしかかった時、子供の頃の記憶が蘇る。確かこの路地の奥に母に連れられて来た芸者さんの家があったはず。色白で細いその人「このごろ旦那が来ないのよ」「お忙しいのよ」と母。退屈な私。

ふいに「良い町ですね」と連れの声。そこは丁度、和菓子屋さんの前、顔を見合わせ暖簾をわけて中へ入る。ウインドウの中にはいろいろな形の生菓子、干菓子。どれもこれも美味しそう。その中に母が好きだったきんつばを見つける。きんつばは子供の頃から馴染みがある。それもそのはず江戸時代からあった焼菓子。「金鍔」は、はじめ関西で「銀鍔」として売りだされたのが、その後江戸に伝わってから「銀」より「金」の方がいいということで、「金鍔」になったとか。甘党ではないのだが、仏さまにと一箱買う。連れも、主人のお土産に、と一箱。ほかの色とりどりのお菓子にも心を残してひとまず目的の、御行の松へ。

右に御行の松、左に不動尊と彫られた石碑の間を通り境内へ入る。「御行の松・別名時雨(しぐれ)の松」という大きな石碑の右側に屋根付きの初代の立派(りっば)な枯株あり。一段高いところに若々しい、形のいい三代目の御行の松。石塀沿いには子規の「薄緑お行の松は霞みけり」の句碑を拝見。奥に鎮座ましますのは不動堂。
「あら、時雨ですよ」と空を見あげる連れ、手をかざすと細かい雨があたった。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2008年10月発行/94号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


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