平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


皇居前の第一生命ビルはGHQ。銀座通りにはGIがぞろぞろ。昭和22年頃のこと。

級友の洋子さんのご主人は米軍将校。豪華な邸宅を訪ねた私はまず彼女の色鮮やかなパンティストッキングに目をみはる。両脇にお子さんを抱えた姿に、挨拶の言葉も出ない。部屋の中から「ヨーコ」と呼ぶご主人の声も英語的発音。メイドさんが出してくれたケーキとコーヒーに目を丸くしていると、当時は貴重品だったラッキーストライクを1カートンお土産にくれた。やさしいご主人はキャデラックで私を家まで送って下さった。

ある時、たまたまご主人の留守に3人目の赤ちゃんの陣痛が始まった。おろおろしている私に片手を上げ、「じゃあ行ってくるわね」と彼女はハイヒールをひっかけタクシーで病院へ向かう、無事出産。

その洋子さん一家がシカゴへ渡ってから、気がつけば50年。まめに日本に来る。
「ハロー、洋子よ」の電話に「また来たの」と無遠慮な私を「ご挨拶ねえ」と笑う。

予定ができて、私がアメリカに行ったのは、60歳のとき。
「アメリカまで来て素通りって手はないでしょ」の彼女の誘いにラッキーとのった。

シカゴの空港は山手線がすっぽり入ってしまうという大きさ。横文字のまるで駄目な私は、宇宙に放り出された赤ん坊のようなもの。当然彼女は英語はぺらぺら。

「何時頃から英語が話せるようになったの」の愚問に、「なんたって主婦はすぐ買い物しなきゃならないし、子供に食べさせなきゃならないでしょ。だから初めからジャンジャン使ったの」とのこと。
そういえば彼女の英語はやや江戸風で、べらんめえ調。たしか彼女の実家は稲荷町の「東雲堂」という老舗の和菓子屋さん、だから江戸風なのはあたりまえかも。

翌日は弟さんにシカゴで一番高いビルから夜景を見せてもらう。宝石屋さん経営の彼女は店を休めない。シカゴといえば映画ではギャングの街というイメージ。こっそり一人歩きもしてみたい。店を開けた後、彼女がシカゴ美術館まで案内してくれた。
「中にいる分には大丈夫よ」と得心(とくしん)顔。ところがどっこいそうはいかないのが私。

日本で見慣れているマクドナルドの看板に安心。でもマクドナルドじゃぁ面白くない。そこで冒険心がむくむく湧き、ピザ屋さんへ入った。あたりは黒人ばかり。手まねで「コレコレ」と注文、待つこと数分。目の前にドカンと大きな箱が来た。とても食べきれない。残りはこっそりごみ箱へ。

日本へ帰り着いた頃、早速彼女から安否の確認電話。彼女曰く、「この頃日本へ行くのが億劫になったわ」と。電話代が気になる私。「飛行機代より安いわよ」と彼女。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2008年8月発行/93号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


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