下町に生れたものにとって忘れられない戦争がある。昭和20年3月10日、亀戸でアメリカの空襲に遭った私は、その時のトラウマを今でもひきずっていて、人が大勢集まったところへは恐ろしくて行きたくない。

その日、空襲警報が鳴ると間もなく、あたりが騒がしくなった。
「まだ逃げないの」
と玄関で芸者さんの声がしたが、咄嗟に逃げるという意味が理解できなかった。
「浅草の方が真っ赤なのよ」
と言われても、「燃える」ということに思いはおよばなかった。それまで実際にバケツリレーで焼夷弾の消し方などを訓練しながら、まさか本当に爆撃をうけることはあるまい、とたかを括っていた。二、三日前の昼、空襲警報が鳴っても悠然と障子の張り替えをしていた母がその夜は幼い子のように脅えている。14歳の私は小癪(こしゃく)にも母を先に逃がし、自分は家を守ろうと覚悟を決めた。隣の芸者さんが、
「もう逃げなきゃだめよ」
と声をかけてくれるまで、二階へ上がったり、水道の蛇口をひねったりとか、家の中をうろうろしていた。不思議と恐怖感はなかった。

戦後60年経ち、あの時アメリカは下町を目標にして焼夷弾を落としたとか、計画的だったとか聞かされても、生き残った私達は事実として受け止めることはできるが、死んだ人達はどうなるのだ。

焼夷弾は、ドイツが第一次世界大戦で英国爆撃に使ったらしいが、コンクリートの建物には効果がなかったという。紙と木で出来た日本の下町には、効果を発揮したのだ。その頃、横十間川(地元では天神川と呼んでいた)には深川の木場へ行く材木が川幅一杯に浮かんでいた。猛火に戸惑った人達はその筏(いかだ)の上に我先に飛び降りた。単に泳げないという理由で、私は川に飛び込まなかったし、筏の上にも降りなかった。あとで筏の上で助かった友達の話によると、大きな火の玉が川を舐めるように転がってくる度に川に沈み、火の玉が去ったと思われる頃、川の上に顔を出して空気を吸ったという。

一方、地上を逃げ回っていた私は、強風と寒さに悩まされていた。目の前で焼夷弾が破裂して、人が倒れた。一歩間違えば私だったかも知れない。群集に揉まれながら燃え盛る橋を渡りきった時、橋は人をのせたまま川へ落ちた。

翌朝、晴れ上がった空に太陽が昇り、強い光が焼土にささった。死体の転がる中を喉がはり裂けんばかりに肉親の名前を呼びながら、さまよう人々、まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界。雲一つない真っ青な空は、罹災者たちには眩しすぎた。我が家の家族は全員無事、煙を吐く浅草の松屋の脇をぬけ、煤けた顔で、上野駅へ急いだ。駅に着くと通勤の人達が私を珍しそうに見た。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2008年2月発行/89号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

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