平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


朝出てきた蜘蛛(くも)は縁起がいいからつぶさないで紙にくるんで神棚へあげて頂だい。

明治生まれの母は慌てて言った。若い頃には、迷信よ、と反発して取りあわなかった私も、母と同じ年頃(75歳)になったせいか、気がつくと、子供の頃にいいつけられたことを無意識にやっている。

今朝、パソコンを開けたら中から蜘蛛が出てきた。手脚のみじかい蜘蛛は気味が悪いというより、むしろ滑稽(こっけい)で、つかまえようとしてもぴょんぴょんとはねて簡単にはつかまらない。そのうち、積んである埃まみれの『戦後五十年』という写真集の中に滑りこんでしまった。

ぱらぱらと開けたページには、昭和22年東京新宿・帝都座で初のストリップショウ開幕という記事がのっていた。まだ町には浮浪者があふれ、復員兵が職を捜し回っていた頃である。写真のストリップガールも思いなしか痩せている。

その頃、幸運にも就職していた私は、1、2年前、空襲で逃げ惑っていたことが、嘘のような平穏な生活を送っていた。

会社にはタイピストが二人。相棒の山野さんのお姉さんが日劇小劇場でダンサーをしているのを知っているのは私だけ。
「姉は後ろで踊るだけだから」
山野さんはそう説明しながら、「観にいかない」と私を誘った。興味半分、怖いもの見たさ半分で、『君の名は』で有名になった数寄屋橋の方へ向かった。

うす暗い会場に入ると、ミラーボールが回っている。男の顔が回っている光に浮き上がる。音楽が始まり、踊り子が出てきた。上半身は裸である。私と山野さんは同時に膝に目を落とした。

しばらくして、「姉が出てる」という山野さんの声がして、上目づかいで舞台を見た。裸の踊り子たちの前に、花柄のドレスを着たダンシングチームがならんでステップを踏んでいる。そのあとトランペットが一段と高い音を上げ、それを合図にダンシングチームは舞台の袖に消えた。ステージの真ん中にライトが集中した。輪になってライトを浴びているのは、裸のダンサーたち。初めははずかしくて見られなかった裸も、落ち着いた頃には美しいと思うようになっていた。よく見ると、中に一人だけ飛びぬけて背の小さいダンサーがいた。乳房も小さく、身体も細く、痛々しい。
「あの子まだ子供じゃない」
山野さんと私は思わず顔を見合わせた。

会場を出ると、外は北風が砂ほこりを巻き上げていた。

風で男のジャンバーの背中に描いた蜘蛛の絵がふくらんでいる。
「夜の蜘蛛は縁起が悪いから殺して」と母の声がしたような気がした。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。


2007年10月発行/88号に掲載


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「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


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