平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


私をはじめ大きくなった孫達と疎遠になっている高齢者は心寂しいもの、せめて銭湯で人とのふれあいを楽しみたいと、夕方になるといそいそと銭湯へでかける。ほとんどの家にお風呂の設備が整っている今は、子供連れはすくなくなった。

いつも行く「さくら湯」に、子連れの若い母親がくることがある。母親は22、3歳ぐらい子供は3歳ぐらいだろうか。母子をみた人は思わず、「あーら、かわいい」と声をあげる。「かわいい、かわいい」を連発するだけではもの足らず、頭を撫ぜてしまう積極派もいる。その子も撫ぜられても嫌がりもせず、じっとしている。影のようにそばに寄り添っている母親は、その子の洋服をぬがせると、手をひいてすーっとお風呂場へ入る。母子の醸し出すなんともいえぬ微妙な雰囲気に引きずられるようにしてあとに続く。

裸になると男女の区別がつかないような年代なのに、湯船によりかかっているその子は、うしろ姿だけでもありあり女の子とわかるしなやかな体つき。

ぼんやりとその後ろ姿を見ているうちに、子供のころから男の子に人気のあった久子ちゃんのことを思いだした。久子ちゃんの人気は、男の子ばかりではなく、受け持ちの先生も久子ちゃんを特別かわいがっていて、私達女の子は随分やっかんだ。

花柳界の中にある「松の湯」ののれんを分けて出てきた彼女と、入ろうとする私が出会い頭に会ったのは何十年も前のこと。

当時久子ちゃんが芸者に出たことは噂で知っていた。会社に勤めているという私に、
「真面目ね、お勤めしてるんだって」
と笑いながら細い指で鬢(びん)を掻き揚げた久子ちゃん。右頬にえくぼをへこませ、首を傾げて顔を覗きこむ仕草も小学校の頃から少しも変わっていない。日本髪をかばうように、ひらいた蛇の目の傘の中から私を見る眼差しは、もうすっかり芸者さんになりきっていた。

爪皮(つまかわ)(※)をかぶせた日和下駄に素足の粋な姿の久子ちゃんに対し、手作りの野暮ったい木綿のブラウスに運動靴という姿の私は俯(うつむ)いていた。
「これからお座敷なのよ、今度ウチに遊びにきて」
言い残すと久子ちゃんはカラコロと下駄の音といい匂いを残して、去って行った。後ろから来た友達は私の耳に口を寄せて
「立派な家を建てたあの人、二号さん(※)なのよ」
という。

その後、久子ちゃんと会うこともないまま年月は流れ、昔のことを忘れかけていた今、久子ちゃんを彷彿とさせる女の子に出会った私は懐かしさに胸がいっぱいになった。

※つまかわ=げたの先にかぶせる雨・泥よけ
※二号さん=おめかけさんのこと。本妻を一号に見立てていう


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある

挿絵:笠原五夫(かさはら いつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。


2007年6月発行/86号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


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