平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


今にも夕立がやってきそうな空模様の中、こんな時はお風呂はすいているもの、と勝手にきめこんで銭湯へでかけることにした。14階のベランダから外の様子を見る。雲は低く垂れ込め、新宿をすっぽりつつんでいた。灰色の雲は見ているだけでも暑くるしい。でも、お風呂には入りたい。エレベーターを降りると、稲妻が閃光をはなった。

銭湯は予想どおりすいていた。冷房の効いた着替え室に入ると汗は急速にひいた。さくら湯はマンションの一階、稲光(いなびかり)はとどかない。たっぷりと湯のあふれる湯船につかり、幸せな気分。そこへ
「降り始めたわよ、鳴り出したわよ」
とフロ友のDさんの声がした。その声で、昔、雷雨の激しいお風呂屋さんでこわい思いをしたことを思い出した。

「暑くてやりきれないねえ、一風呂浴びにいかない」
空襲で焼け出された母と私は、一間きりのアパートで顔を突きあわせうんざりしていた。お風呂好きな私は二つ返事で手ぬぐい、闇市で探した皺(しわ)の寄った小さい石けんを袋へ入れる。
「大丈夫かしら」
と稲光の気になる私。
「あんた臆病ね、大丈夫よ」
と母。
子供のころからゴロゴロと鳴りはじめると「蚊帳(かや)を吊って」、「仏壇へお線香をあげて」と臆病風にふかれて迷信家の私は騒ぐのに、その日は迂闊にも「まだ遠いわよ」という母の言葉とお風呂の引力にひかれて出かけてしまった。

昼間の銭湯はガラガラ、まして夕立の来そうな空模様。
カランには母と私の二人きり、「いいお風呂」と御満悦の母。
焼け出された時は、
「神も仏もないねえ、はし一本茶碗一つもなくなっちゃって」
とぼやいていたのに、細い首を伸ばして後れ毛をかきあげている。
「流してよ」
と子供の私に媚びるような流し目をおくる。
「プン」と私は口をとがらせ、仕方なく母の華奢(きゃしゃ)な体をこする。
その時、ピカッときた。
「こわくないわよ、ほら、もっと左の方、左の方よ」
と母は澄まし顔。素通しのガラス窓からは容赦なく稲光は差し込み、そのうちゴロゴロドカンと雷の落ちる音がした。
身体中が強ばった私は、
「雷は電気なんだよ、湯船に墜ちたらどうするのさ」
ドカン、ビリビリ、と激しい音が続く。生きた心地がしない、というのはまさにこのこと。母を放り出して身体も拭かずに洋服をきた私は脱衣場にうずくまった。

「今はいいわ、雷が鳴ってもここには墜ちてこないもの」
呟いた私に不審な面持ちで顔を近づけたDさん。
いいの、いいの、これは私の独り言なんだから。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだ かずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)がある。


挿絵:笠原五夫(かさはら いつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。


2006年8月発行/81号に掲載