平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


今は埋められて影も形も無くなった瓢箪池だが、かつては浅草名所の一つだった。その池の前で、間口は狭いが奥行きのある家で母が矢場を開いていたことがあった。

ちょうど紀元二千六百年の祭典をやるとかで、浅草が活気づいていたころ、私は公園六区の映画館と瓢箪池の間をぬけ、言問通りをわたり、花柳界の突き当たりにある千束小学校へ通っていた。

帰ってくるとまず瓢箪池でメダカを掬って遊ぶ。濁っている池にひざまではいり、仲良しの露店の子たちと暗くなるまで家には帰らない。瓢箪池の周囲にはバナナのたたき売りが何軒か出ていたが、私の好きなお店は池の角に立っている一番大きなお店である。仁王様の手のようなバナナをわしずかみにして売るおじさんの口上は洒落や冗談がわからない子供にも面白く、一番前で終るまで聞いていた。ガマの油売りの口上も、最後に薬を売る事がわかっていても、終りまで聞かないと気がすまない。

家に帰るのは瓢箪池に映画館のネオンが泳ぐように揺れるころだった。母は勉強しなさいとも、塾へ行きなさいとも言わない。そういうものだと思っていた私は宿題をやりにいった友達の家で、参考書を見て仰天した。それには教科書の答えがのっている。それで勉強してくるなんてずるい。私は参考書のあることも教えてくれない母を恨んだ。

「ガラス湯へ行かない」
宿題が終った友達が誘う。
「ガラス湯って、ガラスが浮いてるの?」
私の疑問に友達は笑った。
「そんなわけないでしょ、普通のお風呂と同じよ、入ってみたい?」

相談はすぐにまとまった。ガラス湯は、すきやきの「浅草今半」の隣のビルの2階にあった。銭湯が2階にあることに驚いた私だったが「お湯がもらないの?」の疑問はさすがに口に出さなかった。入ってみるとガラスも浮いていなかったし、普通の銭湯と変わりはなかった。

お友達から参考書の使い方を教えてもらった私は、そのあと学校へ行くのが楽しみになった。

学年末になったとき、学校から呼び出された母は、「親に恥をかかせて」と目を三角にして怒ったが、成績が悪いのではなく、良いから呼ばれたと知り、いつもは買ってくれない綿飴を買ってくれた。

ある夏、瓢箪池に雷が落ちた。池に一番近いところに寝ていた私はすざまじい雷鳴に生きた心地がしなかった。翌朝、池には大きな鯉が何十匹も浮いた。
「メダカは?」
母に聞くと、
「鯉が死んだんだから、メダカも死んだでしょうよ」
と澄ましていた。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだ かずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)がある。


挿絵:笠原五夫(かさはら いつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。


2006年6月発行/80号に掲載