平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


昭和5年、日本が金融大恐慌の最中、私は浅草千束町で生れた。家業は芸者屋を営んでいて、もの心つくまで花柳界の中で育った。

当時、花柳界の遅い朝飯が終る11時ごろになるときまって、
「かずちゃんお風呂へいきましょ」
と隣りの芸者、桃太郎さんが迎えに来る。それを待ち構えていたように、哺乳瓶を放り出すと戸口へ飛んでいく。
「悪いわねえ、桃ちゃん、いつも」
と後ろで母の声、
「いいえー」
という桃太郎さんがひろげた胸の中へ飛び込む。

体の細い母にあまり抱いて貰えなかった私は、お風呂屋さんまでの道のりを、若い桃太郎さんの肌に抱かれていくのが嬉しかったのだろう。
「松の湯」ののれんは紺地に白、入り口で下足番のおじさんがパンパンと音をさせてお客さんの下駄を揃えている。

「まるで姐さんの子供みたいだねえ」
おじさんが冷やかす。
「そうよ、私の子ですもの、ねえー」
いいながら桃太郎さんは私の顔を両手ではさみ唇をつけ、ぶうぶうと鳴らす。くすぐったい、それだけはやめてほしい、私は内心でそう思っていた。

当時のお風呂屋さんはほとんどが神社か寺のような造りだった。天井は高く、透明なガラス窓は湯気で曇り、陽の光が湯に反射してぎらぎらしている。私も家の小さい風呂より、人のたくさんいる賑やかなお風呂が楽しかったのだろう。カランでは日本髪に結った芸者さんや、洗い髪に柘植(つげ)の櫛をさした芸者さんたちもたまには私に声をかけてくれる。

湯船から桃太郎さんが出ると、待っていた番頭さんが後ろへ回る。
「へい、おつかれさま」
と乾いたおけを裏返してコーンと床を叩いてから、蛇口をあける。勢いよく出たお湯をざーっと背中へかける。

その後、私が楽しみにしていることがあった。番頭さんがこしらえた真綿のようなあぶくが桃太郎さんの背中一杯に広がり、そのうち体を洗う番頭さんの手から全身に回る。桃太郎さんのひざの前にぺたんと座っている私は、乳房の先から垂れてくるあぶくを両手ですくい、風船を突くように桃太郎さんの顔をめがけとばす、桃太郎さんが突き返す、繰り返しても繰り返しても飽きない、桃太郎さんが音をあげるまで遊んでもらった。

「これから髪結いさんですね」
番頭さんはいつものパターンを知っている。
「かつらは嫌いなのよ」
だから湯上がりの桃太郎さんは髪結いさんへ駆けつける。
朝の銭湯は不景気に関係なく賑わっていた。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだ かずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)がある。


挿絵:笠原五夫(かさはら いつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。


2006年4月発行/79号に掲載