平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
大きなバッグを抱えた5人の男女がお出でになった。皆さん30代とお見受けするが、月に1回ほど見えるテニスのグループ。

小学校の休校日に空いているグランドを借りてテニスを楽しみ、仕上げが懇親会。そしてテニスと懇親会のブリッジが風呂ってことで、なんとも楽しそうな雰囲気ですな。

本誌に掲載されている「東京入浴会」と同じ方向性だが、こちらはメインがスポーツというところが違っている。つまりテニス―お風呂―お酒の順序。待てよ、その逆かもしれない。ウン、お酒を楽しむためにテニスをやる、風呂へ入る、といった順序だって考えられる・・・・・・。ヒマなもんで、どうでもいいことをブツブツ詮索していたら「ああ、さっぱりした」とそれぞれがお出ましになった。フロント前で勢揃い、さあ出陣――。いいですなあ。

ところでスポーツの後に銭湯っていう構図は昔から結構あるんだな。もうだいぶ前になるが、ママさんバレーのグループがよくお見えになっていた。こちらも練習―入浴の後はちょっと一杯のご様子で、「今日はどこにしようか」と楽しそうに話していたが、「ご主人、たまには一緒に・・・・・・」とはついぞ言ってくれなかったよ。

それと少年野球のメンバーも来ていたんだ。「優勝したらすしをごちそうしてやる」と気安く言ったらほんとに優勝しちゃって、優勝旗を持ち、勇んで報告に来たっけ。で、約束だからナインを引き連れ、すし屋さんに繰り出したこともあったな。あの子たちも今じゃ大学生だ。成長しただろうなあ。変わんねえのはアタシだけか。

さて、先ほどのテニスの皆さん、今ごろはキューッとやってんな。たぶん、生ビールの大ジョッキだよ。ウーン、よだれが出らぁ。

〇月×日
「オヤジさん! 押すと出るお湯んところが壊れてるよッ」
フロントへご注進に来たのは20過ぎの青年。押すと出るお湯だって? 上がり湯か。カラン(蛇口)のネジが緩んだんだな。

商売中でもちょっとした故障はすべて処置するのがオヤジの務め。フロントでノホホンと銭だけもらってりゃいいってもんじゃない。

それにしても、今のお客さんはシャワーはご存じでも、蛇口をカランと呼び、その湯に「岡湯」「上がり湯」の呼び名があることを案外知らないんだな。ま、知らなくてもカランを押すことさえわかりゃあお湯はいくらでも出るんだから別にどうってこたぁないんだが、風呂屋のオヤジとしては「知ってもらいたい」という気持ちも少々ある。そこでこの際、モノの本の受け売りをちょっぴり・・・・・・。

浴槽を湯舟と言う。これは大方がご存じだ。昔の浴槽が舟形をしていたからだが、その舟の湯に対して流し場の湯は岡(陸)にある湯ということから岡湯(陸湯)と呼ぶんだ。それと、お江戸の初期は体を洗う湯は湯舟からくみ出して使い、岡湯は入浴の最後に使う湯として別だったんだ。なんでも浴室に小窓があり、そこに湯くみ番がいて客はその小窓から湯桶を差し出し、湯くみ番からもらう湯で仕上げをしたんだってさ。で、「上がり湯」とも言うんだよ。

岡湯も江戸の中期以降は流し場の隅に湯槽と水槽が並ぶようになり、さらに、明治になると男湯と女湯の仕切りの下に畳1枚ほどの湯槽を作り、男女双方から随意に使えるようになったというんだな。そして現在のようにカラン式になったのは昭和2年からだって。

おわかりかな青年よ。「オヤジさん、岡湯のカランが壊れてるよッ」とでも言ってくれりゃあ、いっぱしの銭湯通さ。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1999年6月発行/38号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫