平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
「ダンナがこの前、銭湯の雑誌に書いていた湯ふんどしは越中ふんどしじゃないんでしょ?」
「エッ、ふんどし? エッチュウ?」
時折お見えになる。年配の男性だが、そういえば「1010・27号」で江戸時代の浴衣入浴を書き、湯ふんどしにも触れたが、まさかふんどしの質問がくるとは思わなかったよ。
「さあ、どうなんでしょう。風呂の本には6尺みたいなものと書いてあるし、入浴絵なんか見ても越中じゃなく6尺ふんどしのようですよ」
「そう。今脱衣場で越中をしている人を見たもんで、つい聞いてみたくなったんですよ」

なるほど、越中ふんどしか――。
越中を締めている方は何人かお見受けする。大日本帝国華やかなりしころ、軍人はすべて越中だったらしく、その流れから今も愛用なさっているようだ。サムライ然とした精かんな感じがするし、なかなかカッコいいもんである。

越中はその昔、細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)が始めたものとされているが(大辞林)、それまでの下帯は6尺のふんどしをキリリッと巻き付けていたようだ。

思うに、進取の気性に富む細川の殿様は6尺キリリッでは小用もままならず、おまけにインキンタムシに悩まされたんで簡易ふんどしを考案したんだろう。アタシャ勝手にそう解釈してる。

越中を愛用している方にちょっとお聞きした。
「ウン、越中のいいとこは簡便であり風通しがいいから蒸れない。蒸れないから金冷法にもなる。昔の話だが、場合によってはタオルの替わりにもなり包帯にもなる。におい? なあにオーデコロンだと思えばいい(とはおっしゃらなかったが)。越中を使っていると他のものははく気がしない」
スゴイッ、殿様は金冷法も考えていたんだ。

〇月×日
毎日のフロント稼業。お客さんのアタシに対する呼び方もさまざまである。おやじ、おやじさん、だんな、だんなさん、それにご主人。この辺が一般的だが、社長に大将、親方、オイッてえのもある。さらにお父さんと呼ぶ方もいるが、お兄さんはさすがにない。今日のお客さんはマスターと呼びなさる。ご年配の男性だが、至って若々しい方なんだ。

「マスターねっ。この間K駅のそばのお風呂屋さんへ行ったんだが、あそこの番台の奥さんはきれいだったなあ。花柳小菊にそっくりでさあ」
「エッ、ハナヤギコギク? 昔、長谷川一夫なんかと共演していた純日本調の女優の?」

今から40年前の映画女優だ。お客さんも古いことを持ち出すが話の通じるアタシも古いやね。
「そう。あの風呂屋はその奥さん目当てに行く人が多いんじゃないかな」
ウーン、花柳小菊かあ。それを目当てにねえ。お客さん、アタシの顔を見ながら、番台は美人に限るといった雰囲気だ。アタシャちょいとひがんじゃう。確かに昔から客商売の店にきれいな女の子がいると「看板娘」なんて人気があり、その店は繁盛してたもんな。

風呂屋だって昭和30年代の隆盛期は、奥さんや女性従業員が番台の中心だった。当時は花柳小菊はおろか原節子に山本富士子、若尾文子(あやこ)なんかもいたと思うよ。「番台小町」と呼ばれてお目当てにされてね。お客さんが多かったわけだよ。

ところが今はねえ、ゴッツイおやじがモソッとしてフロントに座ってる。これじゃあお客さんだって張り合いがないよな。ヒマなわけだ。
「番台はやっぱり女性のほうがいいですよね」
「インヤッ、マスターだって悪くない……」
ニコリともせずつまんなそうにおっしゃった。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1998年4月発行/31号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫