平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
「あーぁ」湯上がりのフロントで軽くため息をつかれたご老体。アタシの顔を見ながら、
「ため息が出るようじゃ、もうしょうがねえな。『ため息は命を削るカンナかな』ってね」
サラッと言ってニコッとなさった。

20年来の常連さんで「もうじき80だよ」とおっしゃる。白髪で品のよい風ぼう。生粋の下町っ子で軍隊以外はずーっと銭湯育ちだという。

フロントでアタシと時折「銭湯今昔」を話し合う。
「今の若いもんは、というけど、年寄りだって銭湯のシキタリを知らねえのが多いよ。かけ湯も使わずにいきなり湯舟に入ったり……」と辛口もおっしゃる。しかし、さして怒っているふうでもない。

「昔はなあ、やたらに湯舟を埋めたら必ずうるさいジイさんがいてドヤしつけられたもんだよな。あたしなんかも子供のころはよく怒鳴られたよ。来るたんびに怒られるから自然と自分勝手をしなくなっちゃうんだな。ところが今は水を出しっ放しにしても、だれもなーんにも言わねえんだ。あたしゃ時々文句を言うんだけど知らん顔してやがるからいつも止め役よ。それにしても、最近は風呂ん中で怒る人がいなくなったよな。時代が変わったのかねえ」

今日は銭湯気質の変化にも触れられたが、確かに昔の銭湯には入浴指南番のような方が存在していたもんだ。こと銭湯に限らず、社会全般が他人の子供でも遠慮なく注意する気風があったんじゃないか。「われ関せず」が常識のようになっているご時世、ご老体ならずとも隔世を感じる。

「さーて帰るか」。フロントであーぁとまた軽くため息をつかれてお帰りになったが、古きよき時代の銭湯をしのばせてくれる人である。

〇月×日
もう30であろう毎日見える独身の青年。人なつっこくフロントでよくおしゃべりをする。
「オヤジさん、テレビで『遠山の金さん』をやってるじゃない。あん中でさ、金さんが風呂屋にいる場面がよく出るけど、風呂屋って昔からあったんだねえ」
「そう、江戸の銭湯は家康が関東へ入った翌年にできたんだ。天正19年、400年ほど前だな」
アタシはさりげなく知ったかぶり。
「へえ、詳しいっー。そうすっと金さんのいた江戸時代って、西暦何年ぐらいになんの?」
「エッ、セイレキ……?」
金さんの西暦ねえ……。還暦なら60とすぐわかんだけど……。

この独身君、誠に明るい好青年なんだが、時々フロ屋のオヤジのレベルを超えた質問を発するのが玉にキズよ。
「金さんって、あれ実在の人間だけど、江戸の後期だから千……ウーン、難しいこと聞くなよっ」
青年、ニヤッとして入浴した。ウーム残念! 知ったかぶりは底が浅過ぎたな。

しかし、ここでアタシは気張った。「なら、一丁調べたるわい!」と、住まいへすっ飛び、古ぼけた「モノの本」を持ち出してきたんだ。
「エート、桜吹雪の入れ墨判官、金さんは……と」
出てました、出てました。遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)は天保12年、いわゆる天保の改革時の北町奉行である。西暦1841~43年ごろだ。
当時はもう銭湯が各町に1軒ぐらいあり、その数570軒余り、銭湯大隆盛の時代だったという。
そして、お江戸の銭湯の許認可から風呂代まですべてを仕切っていたのが町奉行だったんだ。
よしっ! これで青年にも風呂屋のオヤジのメンツが立つ――。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1998年2月発行/30号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫