平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
隅田川花火の音が聞こえてくる。8時半、若い奥さんと女の子が浴衣(ゆかた)姿で現れた。花火見物の帰りですな。フロントがパッと華やいだ感じだ。

ところで「浴衣」は読んで字の通り、当然風呂と関係のある着衣。アタシャあでやかなお2人を見たついでに、ちょいと調べてみたんだ。ネタは『風呂と湯のこぼれ話』(武田勝蔵著、村松書館)。

まず、「浴衣とは湯唯子(ゆかたびら)の略称で……」と始まる。カタビラって知ってる? つまりね「帷子とは和服で裏なしの単物(ひとえもの)の総称」で、湯に入るときに着るから湯帷子。それが縮まって浴衣なんだって。だったら「湯衣(ゆかた)」と書きゃあいいのにねえ……。ま、いいか。

昔は寺院の入浴は『温室経(うんしつきょう)』などによる戒めから裸体は厳禁で、かならず湯帷子を着用し、後年町中で営業する湯屋ができても当初は浴衣を着て入ったらしいんだよね。

しかし、浴衣着て入るのはいいけど、体はどうやって洗うんだろ。まさか浴衣の上からゴシゴシじゃないだろうし、ねえ……。ま、いいか。

この浴衣入浴は足利時代ごろまで続いたらしく、その後は前を隠すために褌(ふんどし)になったそうだ。これも湯が付いて湯フンドシだってさ。エッ、女性もフンドシかって? ご冗談を、それじゃ食い込んじゃう。女性は湯巻、ユマキですわ。

そして江戸の中期から幕末にかけて湯褌、湯巻がなくなり、やっとすっきりしたんですってよ。

そこで、その後の浴衣だけど、風呂で不要になってからは入浴の前後で着るようになり、さらにそれまでの白地じゃつまんねえから、柄に染め、色彩を加えるようになったらこれが大受けで、日常でも愛用され、今日に至っているということだ。
ン? 湯フンドシはどうなった? さア――。

〇月×日
携帯電話が全盛である。脱衣場でも「モシモ~シ」とやっている。しかし「モシモシ」は結構なんだが、カギのかかっているロッカーの中でピーピー鳴りっぱなしなのには参っちゃうんだな。

初めのころはなんの音だろうとロッカーの前でウロウロしちゃったけど、せめて入浴中だけでもOFFにしていただければありがたいんですがね。

それにしても、電話が人間とペアで歩いてるご時世、いついかなるときでも連絡がつき所在がわかる、誠に便利である。しかしその半面、いつでも連絡がつくということは、猿回しのサルみてえにヒモが付いている感じもするんだよな。

仕事も終わり、さ~て彼女を……と思ったらピーピーで、「急用ができた、至急会社へ戻って来い」から、スナックで盛り上がったときに「あらっ、にぎやかね。今日は何時ごろお帰り?」てな古女房からの無粋なコールも入るんじゃないかな。かといってせっかくの携帯だ。自分の都合だけで簡単に電源は切れないんじゃないの。違う?

ところで今日、中年の男性が携帯電話をフロントへ預けた、7時すぎである。そして言うんだ。
「いま、連絡が来るんだけど、サッと風呂へ入ってくっから、もしかかってきたら用件聞いてて」
すぐに電話が入るんならちょいと待ってりゃいいとも思うが、風呂もお急ぎのご様子。こちとら頼まれりゃあ、すべてがフロント業務よ。
「モシモシ……。アラッ、Aさんじゃないの?」
「ハイ、風呂屋なんです。実はAさんに、電話が来たら用件を聞いてくれと言われたもんで……」
「あらそう。じゃ、8時半と伝えてください……」
ホウ、何やらデートのにおいがするわい。これじゃあ入浴中でもOFFにはできねえな。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1997年8月発行/27号に掲載


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「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫