平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
子供の日、菖蒲湯である。そして子供無料開放の日でもある。ちびっ子がツルんでやって来る。アタシは入って来る子供をフロントで黙って眺めている。ニヤニヤしながらかもしれない。

子供にすれば無料の日であるから「いらっしゃい」の一言ですんなり入れるもんと思っているのに、アタシが関守みてえな態度で何も言わないから、フロント前で通っていいものかちゅうちょしちゃうんだな。で、一様に「今日はタダでしょ」と聞いてくる。そこで初めてアタシは口を開く。
「そうタダ。しかしな、タダだからって黙って入っちゃ駄目、お願いしますって言うんだ。そのほうが入りやすいだろっ」
子供、渋々「お願いしま~す」。

タダだから当然とフロントを無視して素通りしようとする男の子もいたが、アタシは通さない。
「おいっ、黙って通るな、なんとか言えっ!」
坊主、びっくりしたような表情で立ち止まる。そして一瞬考え、片手を上げて「オッスッ!」と抜かしやがった。何か言えってんだからこれでもしょうがないが、そこでまたまた言う。
「何がオッスだ。お願いしますって言うんだ」
ま、こんなことを繰り返していりゃあ、そのうちみ~んな「お願いします」となるだろうよ。

子供が上がって来るとアタシはも一度言う。
「どうだ、大きなお風呂はいいだろっ?」
ごくまれに返事をしないニクタラシイのもいるが、ほとんどの子供は素直に喜んでくれる。アタシャ満足さ。ところが素直過ぎるのもいた。
「おじさん、銭湯はとってもいいからまた今度のタダの日に来るね」
「あのなあ……」
アタシの判定負けだ――。

○月×日
小学生の男子2人を連れた奥さんがお見えになった。もちろん親子である。入浴料をお払いになり「さあ、行きましょう」とお母さんの号令一下そろって女湯へ入ろうとなさる。そういえば前も一緒に入ったな。そこでアタシはちょいと一言。

「僕たちはなん年?」
「僕は4年で弟は3年……」
「4年? そんならもう男湯へ入んなくちゃあ」
子供、お母さんの顔をチラッと見た。
「この子たちお風呂の道具を持ってないから……」
「大丈夫、タオルもせっけんも貸してあげます」
「でも……」

お母さん、何やら不服そう。子供たちはホッとしたようなしないような複雑な表情を見せたよ。

風呂屋を仕切っている都条例184号の第3条の11項に『10歳以上の男女を混浴させないこと』というお達しがある。アタシャ別段それを振りかざすつもりはないが、言うなれば「いつまでも母親にナヨナヨしてんじゃねえ。銭湯に来たときぐらい自分の意志で好きなように洗ってこい。それが成長ってもんさ」との思いがある。

そんなことで強引に母子別々入浴を実施してもらったのだが、子供は母親より一足早く出て来た。で、アタシは言う。親がいなけりゃ高飛車だ。
「お前らよォ、そんなにデカくなって女湯に入るの恥ずかしくねえのか。友達に笑われちゃうぞ」
「ウン、だけどお母さんが一緒に入れって……」

銭湯に慣れた子供なら小学2年ぐらいから自然と女湯を疎むようになる。母親の心配なんか迷惑千万とばかり「男」を強調し、たくましく一人で歩き出すもんだ。つまり「男女7歳にして席を同じうせず」ってとこよ。ちょっと古いかな。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1997年6月発行/26号に掲載


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「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫