平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
オヤッ、珍しい。脱衣場から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。先ほど新婚のご夫婦が生後4ヵ月の赤ちゃんを連れてお見えになったのだ。
内風呂の普及に加え、各家庭に子供が平均1人強という数字が拍車を掛けてもいるのだろうが、銭湯から子供の姿が少なくなり、赤ちゃんに至ってはごくごくマレになってしまっている。
かつての銭湯は赤ん坊の泣き声が脱衣場のハーモニーでもあったのに――と久しぶりの泣き声に、昔を思い出し懐かしくなっちゃった。

そこで、その昔だが、風呂屋はお客さんの子供に対して実に細やかな面倒を見たのである。どこの浴場でも3~4人の女子従業員がいた。いまなら、さしずめサービスレディといったところで、子供が見えれば、まず衣服を脱がせて差し上げる。上がってくればタオルを持ち入念に着せて差し上げる。赤ん坊のオムツも取り替える、ミルクも飲ませる、親御さんの入浴中は子守もする。脱衣場には子供専用の簡易ベッドが数台あり、幼児用の体重計もあった。アタシが言うのもなんだが、それこそ至れり尽くせりだったと思うよ。

このサービスは戦前から続いている風呂屋の伝統であり、銭湯のウリでもあったんだな。で、各浴場は競ってサービスに励んだもんさ。もちろん、きょう日のサービス料なんか1円も頂かない。でも、お客さんが感謝を込めて出されるチップはご遠慮なくちょうだいしましたがね。

しかし、こんなサービスも昭和40年代前半までで、人手不足と人件費の高騰からくる営業形態の変化により自然消滅の形になっちゃった。
エッ、銭湯の景気回復のためにまた復活しろですって? ウーン、その前に赤ちゃんをいっぱい産んでもらわなくっちゃ――。

○月×日
なんとも親切で愉快なおばちゃんがいらっしゃる。とにかく「ご親切」なんである。
慣れないお客さんが見えた。慣れないから諸事万端ぎこちない。と、おばちゃんが早速ロッカーの使い方から浴室のことまでご説明くださる。この辺、当方としては入浴案内係のようで「まことにかたじけない」といったところ。

「百円玉に両替して。いま、ランドリーを初めて使う人に教えてやるんだから……」
この辺もランドリー案内として喜ばなくっちゃ。
忘れ物、落とし物の類(たぐい)があれば目ざとく見つけてフロントへお届けになる。この辺も、まあ……。
ロッカーのカギをがちゃがちゃやっている方を見ればこれまたすぐフロントへご注進。
「ダンナ、X番のカギが開かないってさッ」
行ってみれば番号違い。この辺は、ねえ……。

いつも「ご親切」に気配りの方だから人見知りもなさらない。だれ彼なく声を掛けている。「今日はすいてるよ。ガラガラだよ」
「いま来たの、ガラガラだよ、ゆっくり入れるよ」
状況説明は結構なんだが、大きな声はフロントへも筒抜けで、「ガラガラ」を連発されるとアタシのほうが何やらめいってしまう。

そして今日。バスタオルを持ち小走りに脱衣場から出て来たおばちゃん、そのまま足も止めず、「いま帰った奥さんが忘れていったみたい……」と表へ追っかけていった。おや、ご親切に……。
ところがすぐその後に中年のご婦人がフロントの小窓から声を掛けてきた。
「あのォ、いすの上に置いてあったバスタオルがなくなっちゃったんですけど……」
ホイ、今度はアタシがおばちゃんを追っかけた。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1997年4月発行/25号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫