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【著者】川越太郎/1968年、新潟に生まれ東京で育つ。武蔵小山温泉 清水湯の3代目。 かつては閑古鳥が鳴き潰れかかっていた清水湯を、都内屈指の人気銭湯へと生まれ変わらせた銭湯業界注目の若手銭湯経営者。海と妻と3人の子供たちを心から愛する男。空手3段。


主な登場人物
・太郎(主人公)…清水湯3代目
・マユミ…太郎の妻
・紅(くれない)…太郎の長女
・太介(だいすけ)…太郎の長男
・リカ…太郎の次女
・オヤジ…太郎の父
・オフクロ…太郎の母
・宝田…清水湯の建て替えを担当する設計士
・吉田…建て替え工事の現場監督
・山師…温泉掘削業者


 俺は毎日、清水湯の前にできた仮設の事務所に顔を出した。現場監督の吉田と建築の進捗状況を確認するためだ。そして毎日のようにヘルメットをかぶって現場に入り、目視で確認し、デジタルカメラであらゆる箇所を撮影し、そして質問した。そういう真摯な態度が現場に伝わらない訳がなかった。

 吉田とは信頼関係が深まっていった。たまに一緒に飯を食い。差し入れもした。現場監督の良し悪しが建築の良し悪しと言っても過言ではない。お互い冗談を言えるような間柄になってきたころだった。

 清水湯の地下部分と基礎工事が終わろうとしている時だった。
 数年前から始めていた波乗り。その湘南の海からの帰り道、もうすぐ家に着くというところで、カーラジオから「渋谷区の温浴施設で爆発事故が発生した模様」という速報ニュースが耳に飛び込んできた。それ以上の続報は流れなかった。だが、「温浴施設」というフレーズが、ものすごく嫌な予感を呼び起こしていた。
 それは、渋谷区松濤の温浴施設のメタンガス爆発事故だった。

 そのニュースは、土地をひっくり返し、新しい建設の槌音の中、少し浮かれはじめていた俺の後頭部が思いっきりぶっ叩かれるような出来事に発展することになる。この時の試練は、オヤジの先物取引での大損失、地主との12年に及ぶ交渉の中での土下座、そして挫折感。それ以上の絶望感だった。

 仮の住まいに着いて、すぐにテレビをつけた。マユミはリカに授乳していて、まだテレビを見ていなかった。
「大変なことが起きた」
 俺の尋常じゃない雰囲気を察したのか、
「え、どうしたの?」
 マユミが聞き返した顔がさっと青ざめた気がした。リモコンでテレビをオンにした。テレビの全チャンネルはこのニュース画面に独占されていた。そして突如、中継画面に変った。

―――「只今、渋谷区松濤の温浴施設で爆発があった模様です」―――

 ヘリコプターの上空から撮影している生中継画像では、屋根が吹き飛んでいるように見えた。よく言う「寝耳に水」などという簡単な比喩では表せない世界が一瞬にして現れた。

「知ってる! あの温浴施設だ!」
 前年に開業したばかりだった。その人気の温浴施設に、数ヵ月前、外観の視察も兼ねてパンフレットをもらいに行っていた。確か、女性専用の温浴施設だったはずである。
「爆発!? 何があったんだ」

 マユミの前で強気な男を演じているが、この時は崩れそうな感覚が襲ってきた。

 頭の中で混乱しそうになるのを必死にこらえて、つぎのニュースに集中した。しばらくすると「ガス爆発のようです」とアナウンサーが言った。愕然となった。
「ガス爆発って、まさかメタンか!?」
 ひとりごちる端から新しい情報が流れてくる。
「温泉に含まれるメタンガスが爆発した模様……」
「汲み上げた温泉から発生した天然ガスがなんらかの原因で引火し爆発……」
「天井が吹き飛ぶほどの爆発で近隣の家屋も被害が……」
「負傷者、死亡者も……」
 漸次、事故の詳細がわかってきた。

「やはりメタンガスだ!」
 これは大事になる。そう直感した。
 直ぐに設計士に電話をした。宝田もテレビを見ていたようだ。冷静さを装いながらも、その言葉は沈んでいた。
「川越さん、ちょっと大変なことになってしまいましたね」
 俺は吐き気をおぼえてきた。
「宝田さん、大変どころじゃないです。下手したらすべてが終わります」
 そう、これは直感ではない現実なのだ。感のいい俺は、即座にこれから起こるであろう事態を容易に想像することができた。

「宝田さん、まずは近隣の方々に安心していただこうと思う」
 絞り出すように言った。

 宝田はそこで初めて合点したように、
「そうですね。川越さん」

 俺は建て替え工事が始まっている期間は無職だった。無駄に時間を潰すよりはと、知り合いの手技療法の診療所で無給のバイトをしたり、全国の名湯を視察に行ったり、時間が許す限り手製のチラシを作り、近隣にポスティングをしまくっていた。

 チラシの文面がこうだ。

―――銭湯初! 1500メートルの大深度温泉掘削成功!!!――――

 ご丁寧にエクスクラメーションマークが3つも並んでいた。
 俺自身が徒歩で一万枚配ったばかりだった。近所のおばさんから、
「すごい温泉出たんだってねぇ」
しかも
「1500メートルも堀ったの!」
と認知され、言われるようになってきた矢先でもあった。

 反響が出始めていた。その直後といっていい。

 今、まさにテレビでは「大深度温泉が爆発した模様!」と捲し立てていた。
「こちらの温泉は深度1500メートルだそうです!」
「東京に温泉、それ自体が無理がある。その代償じゃないでしょうか」

 専門家らしい人間とアナウンサーが話している。これ以上は見ていられなくなり、一旦テレビを消した。

 外に出た。瞳孔が開き気味なのか、日射しが眩しく感じた。

 まずは関係者全員を清水湯の前の事務所に集めた。各部門の責任者が心配そうな顔を揃えている。俺は深く深呼吸した。
「落ち着け落ち着け。乗り越えられない壁はない」
「意味がある壁しか俺の目の前には現れない」
「今までもそうだ。これからもそうだ。絶対乗り越えられる」

 こんな時はいつしか読んだ本の中の一節しか浮かんでこない。これから起こり得るであろういろいろな事態を想定しながら、それに備えようということになった。だが、具体的なことは何も決まらなかった。

 事務所のテレビはついていた。皆食い入るように見ていた。テレビのアナウンサーは悲壮な表情で伝えていた。
「この1500メートルの天然温泉は、メタンガスが付随して出てくるそうです。何らかの原因でそのメタンガスが機械室にたまって、それが何かに引火して爆発した模様……」

 そもそも俺はこのメタンガスを資源として利用しようとしていた。俺が知る限り、都内に1軒、メタンガスをエネルギーとして利用している温浴施設がある。だが、このメタンガスは、鉱山法など幾多の許認可を経ないと利用できなかった。あまりにもハードルが高すぎて、設備さえも揃えることは出来ないと認識し、途中であきらめていた。

 しかし、都心の渋谷という住宅街でガス爆発なんて……。それも屋根が吹き飛ぶほどの大事故が起こるなんて、夢想だにしなかった。

「俺の黄金の湯と同じ温泉じゃないか!」
 同じ事故を起こす可能性がある。
「なんて危険な温泉を掘ってしまったんだ!」

――――後悔――――

 足元を支える大地が揺れる気がした。
 そこまでの認識がなかったから怖くなった。
 なんだか犯罪者になってしまった感覚が襲ってきた。
 近隣の人々がどう受け止めるか、それが子供や妻にどのように肩身の狭い思いをさせるのか。俺はオヤジの病気で苦しんだ思いがあった。だから俺はオヤジのような親にはならないと決めていた。俺のことで子供に苦しい思いをさせたくない。その思いが強かった。

 苦しかった。
 そして、「甘かった!」と身悶えするような後悔が押し寄せてきた。

 俺は、埋める覚悟をした。1億かかった大深度温泉。銭湯初といっていい大深度温泉。沢山の人々が掘削を支え、助けてくれた大深度温泉。

 山師に電話した。山師は掘削が終了してから、本社のある札幌に戻っていた。単刀直入切り出した。
「山師さん、もし埋めるとしたら幾らかかりますか?」
 山師は絶句して、「ちょっと待っててください」といって受話器を保留にした。

 しばらくすると、「川越さん、まさか、せっかく俺たちが死ぬ思いで掘ったのを埋めるというんじゃないでしょうね」
 俺はしばらく逡巡してから言った。
「渋谷では死亡者もでている。まだ年若き女性従業員だと聞いている。俺は地域に貢献するために銭湯を続ける決意をしました。ですが、こんな大事故を起こすなんて……。こんな危険な温泉は使えない。」
 山師は言った。
「川越さん、メタンガスは溜めなければ爆発はしないんです。ちょっとうがった見方ですが、道路にはガス管も埋まっています。日本中のどこでもガスがあるんですよ。それこそマンホールにもメタンガスが発生している。すぐそこの目黒川でもボコボコいっているでしょう。あれもメタンガスです。でも、東京ガスや東京都が安全に管理しているから、我々も安心して使えるんじゃないですか。埋めるのは考えなおしてください」

 確かにそれはそうだ。電気でもガスでもそれ自体は危険物だ。安全に使うこと、それが大前提だ。そもそもメタンガスが出ることは最初から分かりきっていたことだ。この温泉、そして付随して出てくるメタンガス。このメタンガスについて、今はもっと知る必要があるのかもしれない。

 実は、東京の下にはメタンガスが豊富に閉じ込められている。南関東ガス田という、いわゆる上総群層という地層の中に染み出るように含まれている。この上総群層はお椀のような形をしていて、東京の真下が最深部で、房総の北部の方では最浅部となっている。千葉の茂原あたりだと田んぼの脇からぶくぶくと天然ガス(メタンガス)が噴出していて、そのガスを近隣の住民たちはお手製のガスホースを自宅に引き込み利用している。天然のメタンガスには匂いが無いから、常に燃やし続けるか、自宅の手前で元栓をつけて、開け閉めの管理をしているらしい。当然無料だ。
 また、この上総層群から出る天然温泉はヨウド分が豊富で、うがい薬の「イソジン」の原材料となっている。注意してみると、房総半島の海沿いの松林の中に、ひっそりと汲み上げ設備を構えていることがわかる。

 安全に利用してこそ、地球の有限なる資源の天然温泉なのだ。
「わかりました。まだ僕の気持ちも定まってません。温泉埋設の見積もりだけは作成しておいてください」
 山師は苦り切った声で「わかりました」と答えた。

 その夜、マユミにだけ苦しい心情を吐いた。話さずにはいられなかったのだ。
闇の中で眠ろうとして目をつぶると怖くなってくるのだ。

「俺、間違ってたのかなあ」
 マジで怖かった。マユミはなにも言わない。
「埋めるよ、俺、埋める」
 マユミは頷きながら俺を優しく抱いてくれた。しばらくすると闇の中に引きずり込まれそうな、はち切れそうな心の強張りが、少しずつガスが抜けるように穏やかになってくるのがわかった。恐怖心から戦わなくてはいけない責任感が湧いてくるようだった。

「ああ、俺はまだやれる……俺はや…れ…る………」
 闇の中から引きあげられるようだった。闇が消えていくほどに心が安らぎをおぼえていく。その安堵感が眠りのベールの中に溶け込みかけた時、おでこに何かを感じた気がした。

「キス…かな…」
 そう思った時には、すでに深い眠りのなかに入っていた。そして気がついた時、日の出とともに燦々と真っ赤な太陽が俺の頬を照らしていた。


(「俺の銭湯」は、毎月第1金曜日と第3金曜日に更新します)