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【著者】川越太郎/1968年、新潟に生まれ東京で育つ。武蔵小山温泉 清水湯の3代目。 かつては閑古鳥が鳴き潰れかかっていた清水湯を、都内屈指の人気銭湯へと生まれ変わらせた銭湯業界注目の若手銭湯経営者。海と妻と3人の子供たちを心から愛する男。空手3段。


主な登場人物
・太郎(主人公)…清水湯3代目
・マユミ…太郎の妻
・紅(くれない)…太郎の長女
・太介(だいすけ)…太郎の長男
・リカ…太郎の次女
・オヤジ…太郎の父
・オフクロ…太郎の母
・宝田…清水湯の建て替えを担当する設計士
・吉田…建て替え工事の現場監督
・山師…温泉掘削業者
・最藤…連合町内会の副会長


「いい銭湯を創ろう」
 高台にある武蔵小山は不思議と朝日も夕日もどことなく鮮やかに感じる。そんなことを考えながら、俺は清水湯の脇にある3丁目掲示板の前にいた。

 一枚の「清水湯から皆さまへ安全のお知らせ」と題した貼り紙。燦々と夕日が輝いて照らしていた。

 完全に安全。そして絶対無事故の銭湯。設計し見直すことで得た安全設計。完璧だった。

 その後、俺の説明を聞きたいという人は一人も現れなかった。

 有形無形の優しさが、俺たち銭湯家族を守ってくれた。その優しさに感謝しつつ、絶対にいい銭湯を創ろうと、さらに強い思いが湧き出してきた。

 清水湯の前にある月光建築の仮事務所に皆が集まった。
「今日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。過日の渋谷の爆発事故の原因が分かれば分かるほど、施工側また設計側のミスということが明白になってきました。起こるべくして起こった事故と言えるでしょう。ただ、僕たちも同じ轍を踏むところだった。その可能性は否定できません。今回、事故にあわれた方々のことを考えると軽々なことは断じて言えませんが、この一件に関しては我が身に(鑑み)当てはめて、我々は絶対無事故、絶対安全の銭湯をこれより築いて参りたいと思います」

 その時、現場監督の吉田が提案した。
「川越さん、再出発する前に、皆で今回の事故に遭われた方々に対して黙祷を捧げませんか?」

 皆、無言だった。同意の無言だ。

「黙祷!」

 目を閉じ、それぞれが暗礁に乗り上げそうになった清水湯建築計画に心を一つにした瞬間だった。しばらくして一人ずつが目を開いた。その目は断じて無事故、そして絶対安全の銭湯を創る決意に燃えていた。

 決して対岸の火事ではなかった。人生で一度あるかないかの足元を覆されるような地響きだった。妻がいたから立ち直れた。子供がいたから前に進むことができた。厳しい時を過ごすことになったが、全てには何か意味がある。生きている意味を考えることも出来た。

 昔から小さな仏壇がある。扉を開くと過去帳があった。6月19日を忘れまじき日と記した。

 すでに事業は始まっている。総額7億の事業だ。「やっぱり辞めます」では済まされない。

 中学の時は勉強が嫌いで勉強辞めます。それで通るだろう。高校の時は、学校がつまらないから辞めます。それで通るだろう。しかし、最高の銭湯を創ると決めて、やっぱ無理です。それは通らない。

 今まで病気のオヤジの肩代わりだったが、自分の責任の中で起こった出来事に真っ向から向き合う初めての経験だ。遊びじゃない。事業としての責任がそこにある。

 ふっと笑いそうになった。
「ああ、何だか本当に俺、戦ってるな」
苦しさを突き抜けて楽しくなってきた瞬間だった。

「人生山あり谷あり」と言うが、谷があるから山の素晴らしさがわかる。その起伏の山と谷が人生に彩りを与えてくれる。自分のために、そして家族のために。
それがひいては地域のためになるのだ。

 その後、建設は順調に進んでいき、随喜の槌音となっていく。太陽の高度は真夏の中天から確実に下がってきた。

 一階部分が立ち上がり、二階、三階と立ち上がっていく。基礎部分が案外一番時間がかかっていたように思える。浴場部分も浴槽の配置やシャワーの位置など、直前で変更になることもあった。設計図と実際に出来上がったものとに若干の違和感がなくもなかった。それは特に浴槽の広さだった。率直に、思いのほか「狭い」と感じた。広さに応じてカランの数も決まってしまう。それでも露天風呂部分を合わせれば、確実に以前より広い。

 この新しい銭湯にこだわりがあるとすれば基礎にかなり投資していることだろう。ベタ基礎(杭を入れていない)の銭湯もある中、基礎だけで約30本の杭が入っている。地上3階建ての銭湯でだ。当然、地震に強い建物ということにこだわっている。

「あなた、ずいぶん銭湯らしくなってきたんじゃない」
 俺は末の娘のリカを抱きかかえながら、マユミの言葉を聞いていた。
「建て始めてからも色々あったけど、無事にここまで来れたわね」
 ほぼ躯体工事は終わり、外構工事に取り掛かり、正面玄関の数寄屋門に瓦を乗せている時だった。
「本当に何もなくここまでこれてよかった。運がいいのはわかっていたけど、俺たちを何かが守ってくれているのかもな」
 結構、真顔で答えた。
 足元にいる紅が太介の手を取り、「太介! かけっこしよ!」といって脇の細道を走り出した。その脇道も徐々に植栽を始めていて新しい銭湯に彩りを与えていた。

 平成20年(2008年)春の土曜日の昼下がり。かむろ坂の桜、そして林試の森公園の満開の桜を見に行く道すがら、ほぼ出来上がってきた清水湯に寄って、進捗状況を見に来たのだった。リニューアルオープンまでもうすぐだった。

 内装、外構工事が猛ピッチで行われていた。

 俺は40歳になっていた。マユミは2歳下。紅は7歳。すでに小学2年生になっている。太介は3歳。今春から幼稚園に通っている。リカは2歳。まだマユミから離れようとしない。清水湯のリニューアル建築工事とあいまって、子育てが大変な時でもある。

 新しい清水湯の威容は道行く人の瞠目を集めた。建っていること自体が宣伝塔のようであった。

 オープンまで約1ヵ月。
 浴槽に温泉を張って、水漏れの点検とボイラーの試運転をすることにした。折角だから夫婦水入らず、文字通り一番風呂をいただくことにした。

 誰もいない夜の露天風呂。やや暗い雰囲気が露天風呂らしい幽玄さを醸し出していた。空を見上げると、宵闇の南東の夜空に、少し欠けた上弦の月を眺めることができた。
「ああ、露天風呂すげえな」
「そうね」
 清水湯は今回初めて露天風呂を導入した。外気が肌に心地いい。
「もっと空が見えればよかったけど仕方ないか」
「あまり見えると隣りのマンションから丸見えになっちゃうもんね」
 二言三言言葉を交わして、月が写る湯舟の水面に視線を移した時だった。

 俺はマユミを見ながら言った。
「何だか黄色くないか?」

 マユミも気がついたようだ。普段から大きい瞳を更に見開いて、
「今、わたしもそう思ったの」
 俺は確信した。
「この温泉はいい!」
 そして初めて入る大深度温泉にゆっくり浸かった。
こういう時は夫婦の呼吸が合うものだ。2人して「ふ~」とか「あ」に点々をつけたような感嘆詞が同時に出てしまうものだ。

 折角掘った温泉が肌に合わなかったらどうしよう、という一抹の不安はその瞬間吹き飛んだ。自分の肌に触れ、温泉を纏わりつかせるように滑らかさを確認した。
「オヤジが掘った黒湯ほどじゃないけど、すべすべするね」
「何だか肌が蘇る感じがする」
 マユミはすでにうっとりした顔になっていた。

 自宅に若返りの元、美肌の源泉があるなんて、ある意味夢のような話なのだ。
こんなところでも伴侶であるマユミの喜ぶ姿を見ると、やり切るところまでやってよかったと心から嬉しくなってきた。

 あの日。「埋めるんだ」、そう誓った日。だが、多くの友人のアドバイスは「続けろ」という重くて熱い言葉だった。

 沖に出なければ波に乗ることはできない。ならばまずは沖に出よう。そう思い直してここまで来た。

 俺は改めて確信した。この温泉はすごいことになる。そして閃いた。うっとりと半眼になりながら湯舟に沈みかけているマユミに言った。
「『黄金の湯』という名前にしようよ」

 この1週間ぐらい前、夢を見た。昔の清水湯にはコンクリートの外床の中庭があった。その中庭は朽ちかけた柱と梁の煤けた居間のサッシ越しから見渡すことが出来た。その中庭とも言えないただのコンクリートの外床は、一応防水加工が施してあった。オヤジが水タンクを置くつもりで作ったらしい。
 夢の中では、そこは何故か池になっていた。そしてなぜか黄金色に輝いていた。よく見ると黄金色の錦鯉や黄金色の真鯛がうじゃうじゃ泳いでいた。俺は夢中で知らぬ間に手にしていた大網ですくった。すくい放題だった。黄金色の水しぶきが上がった。周囲は黄金色に包まれていた。そして目を覚ました。
その時、隣に寝ているマユミを揺り起こし、「やべー夢をみた」と伝えた。

 それを思い出したのだ。それ以前は、一抹の不安が拭えなかった。大深度温泉掘削完了時に試運転で汲み上げた色は、どちらかというと灰色だった。

 そしてポンプを取り付けた時も試運転した。その汲み上がってきた大深度温泉も、こんな色はしてなかった。

 何かの作用がこんな色に変えるのか。自分の限界を乗り越えるたびに、何かがそこで守ってくれるような感覚に陥った。

 マユミはわかりやすい。良いものには反応する。
「いい名前ね!」
 普通の住宅を建てるだけでもかなりの心労を要する。銭湯を作るという大事業は約1年半を経ていた。気がつかなかったが、かなりの疲労が溜まっていたようだ。何故ならこの日の温泉に浸かった後、猛烈な睡魔が襲ってきて、本当に久しぶりに熟睡をすることができたからだ。

 その事実だけでも、この黄金の湯の凄さが分かった気がした。そして、あの日、本当に埋めなくてよかったと思える日が程なくやってくるのである。


(「俺の銭湯」は、毎月第1金曜日と第3金曜日に更新します)