2016/10/21

俺の銭湯

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【著者】川越太郎/1968年、新潟に生まれ東京で育つ。武蔵小山温泉 清水湯の3代目。 かつては閑古鳥が鳴き潰れかかっていた清水湯を、都内屈指の人気銭湯へと生まれ変わらせた銭湯業界注目の若手銭湯経営者。海と妻と3人の子供たちを心から愛する男。空手3段。


主な登場人物
・太郎(主人公)…清水湯3代目
・マユミ…太郎の妻
・紅(くれない)…太郎の長女
・太介(だいすけ)…太郎の長男
・リカ…太郎の次女
・オヤジ…太郎の父
・オフクロ…太郎の母
・宝田…清水湯の建て替えを担当する設計士
・吉田…建て替え工事の現場監督
・山師…温泉掘削業者
・最藤…連合町内会の副会長


 山師から電話が来た。「今、見積もりのFAXを送った」とぶっきらぼうに伝えてきた。100万円という、取ってつけたような見積もりが出た。温泉掘削に1億かかったのに、埋め戻すのにたった100万円。実際、そこら辺の土をもってきて埋めればいいことだ。俺でもできる。なんだかアホらしくなった。それと同時に、埋めるのはいつでもできると思い直した。

 久しぶりに熟睡できたからだろうか、気力が戻ってきていた。眩い太陽の日射しを受けながら、そのFAX用紙を日にかざしてみた。そして、あの海を思い出した。

 いつか見た七里ガ浜の海。陽光に反射しながら打ち寄せる美しい巻波。一本乗るごとに沖へ戻っていく波乗り人。何度も打ち寄せる波をドルフィンスルーしながら沖に出ていく。その姿を見て、まずは沖に出る。そこから初めて無限に押し寄せる大波を享受できる。そう、まずは沖に出る。それからすべてが始まる。それが大切なんだと、憧れに目を輝かせながら見続けた。
 それは何にでも言えることだった。スキーも山に登らなければ滑り下ることはできない。温泉もまずは出来ることをすべてやりきって、それでも安全を確保できないのであれば潔く埋めよう。

「まずはやり切るんだ!」
 そう思い直すと、今、するべきことが心の中に湯水のごとく溢れ出してきた。そうなると行動は早い。その足で連合町内会の副会長のところへ出向いた。

 実は、すでにその時には連合町内会の副会長から打診があったのだ。
「温泉爆発のニュースを見ていたら、最近入っていた清水湯のチラシと一緒だということに気がついた。そして住民からも、不安に思うから住民説明会を開いてほしい」というのだ。

 予期していたことだった。更地にした後、3ヵ月間これ見よがしに高さ30メートルの温泉櫓(やぐら)が立ちそびえていたのだから無理もない。

 俺は後地児童公園の裏手にある、決して豪奢ではない副会長の最藤氏の自宅の門前に立っていた。

 伝えるべきことはすでに決まっていた。呼び鈴を鳴らす。優しげな年配の女性が出てきた。たまに道端ですれ違うなと思った。
「清水湯の川越でございます。副会長様はいらっしゃいますか」と伝えると、奥から度の強い銀縁の眼鏡をかけた、丸顔の大きな二重の目が優しげで、白髪が綺麗にすき撫でつけられた、紳士然とした初老の人物が出てきた。それが副会長だった。

「清水湯さんだね。忙しいのにわざわざ来てくれたんだ。ありがとねぇ。どうでもいいんだけど、連合町内会であの渋谷の事故が気になるっていうのがいるんだよ」
 決して威圧感はない、何だか昔からの知り合いのおじさんに語りかけられているような安堵感があった。
「そこで、清水湯さんは大丈夫だっていうことを皆に知ってもらうために、説明会を開いたらどうかということなんだよ。決して清水湯さんを悪者にしようなんて思ってないから、私も横にいて一緒に説明してあげるから」
 おそらく知っているのだろう。俺がオヤジの代わりに戦ってきたことを。そして地域に貢献するために銭湯を続けようとしていることを。町内会とは祭りの後の無料入浴券など、昔から連綿とつき合いがある。だが、それだけではない何か温かいものを感じた。俺は初めて二言三言話して、信頼できると確信した。だが、俺は副会長の申し出を一度断らなくてはならなかった。

「最藤さん、本当に申し訳ありませんが、住民説明会はしません」
 副会長の顔が一瞬ひきしまった

 間髪入れず言った。
「最藤さん、膝づめで説明させていただきます。もし100人僕の説明が必要なら、一人一人のところに出向いて一人一人、100人に懇切丁寧に説明させていただきます」

 副会長はぱっと表情が明るくなって得心したようだ。

「そうだね。それがいい。むしろその方が親切だし、理解も得られるだろう。連合町内会のほうには私からそう報告しておくよ」

 では、なぜ安全なのか、それを説明してほしい。それは、こういうことだった。「天然ガス」いわゆる「メタンガス」は、ある一定の濃度にならないと爆発しない。要は密室空間に溜めなければいいのだ。

 俺は短期間のうちに、出来る限りのメタンガスの知識を吸収していた。

 この時点で建築工事は基礎工事が終わり、これから黒湯タンク、水道水タンク、お湯タンクを作る段階に入っていた。

 実は黄金の湯も、この地下タンクに貯める設計となっていた。お湯を貯める。これは銭湯では常識なのである。俺は副会長に説明しながら、清水湯の打開策を説明していた。そうなのだ、タンクは作らず全部外に出してしまえば、一切の問題は解消するのだ。

 井戸芯はそもそも外にある。そこからすべての取り回し配管を建物の外に配して、屋根のない露天風呂だけに使用すれば安全だ。すべての大深度温泉の設備を、建物の外にはじき出すんだ。それで爆発することは100パーセント無くなる。

 俺は副会長に話しながらも、不思議と自分自身も段々と確信を持てるようになってきた。

 副会長も頷きながら「それなら絶対安心じゃないか、いい温泉が出てみんな楽しみにしてるんだから、いい銭湯造ってよ」と言ってくれた。

 俺は、わかる人にはわかってもらえるものだなと、心の底のほうに震えるような喜びが湧いてきた。知らないうちに副会長の足元には、笑顔の可愛い小さなお孫さんが寄り沿っていた。

―――士は己を知るもののために死す―――
 有名な言葉だ。

 町内会は違うが、隣の町内会の会長であり、12ある町内会の連合町内会の副会長でもある最藤氏は、俺の意気に感じてくれたのか、品川区の全町内会の掲示板に清水湯の配管取り回しと、温泉の防爆設備の設計図とともに、何があっても事故など起こらないという太鼓判を押した説明文を貼り出してくれた。
 本来、町内会の掲示板は公共のものだから、個店の宣伝の類を掲示することはまず許されない。それを、清水湯という一銭湯の安全性を喧伝するがごときA3サイズの張り紙を貼らせてくれたのだ。町内会の掲示板。見てないようで結構人々は見ている。効果はてきめんだった。
 その後、一切の憶測、邪推の類は雲散霧消していった。

 俺はますます武蔵小山という町が好きになった。そして、そこに住む人々をまた心から愛するようになっていった。


(「俺の銭湯」は、毎月第1金曜日と第3金曜日に更新します)