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【著者】川越太郎/1968年、新潟に生まれ東京で育つ。武蔵小山温泉 清水湯の3代目。 かつては閑古鳥が鳴き潰れかかっていた清水湯を、都内屈指の人気銭湯へと生まれ変わらせた銭湯業界注目の若手銭湯経営者。海と妻と3人の子供たちを心から愛する男。空手3段。


主な登場人物
・太郎(主人公)…清水湯3代目
・マユミ…太郎の妻
・紅(くれない)…太郎の長女
・太介(だいすけ)…太郎の長男
・オヤジ…太郎の父
・オフクロ…太郎の母
・地主…清水湯に土地を貸している地主


 清水湯の北隣の古い木造建築が建っていた広大な敷地はいつのまにか更地になり、気がついたらデニーズが出来ていた。やけに黄色い看板が目立つそのファミレスで、最近打ち合わせをすることが多くなっていた。窓側のテーブル席に座ると、ちょうど清水湯の重油貯蔵庫の赤レンガの壁が目の端に映った。

「宝田さん、僕はマンションは造らない」

 設計事務所の一級建築士に伝えた。マラソンが趣味だという。小柄な体躯に誠実さが滲みだしている。

 宝田は、それほど意外でもないという顔を向けると、

「川越さん、そうですね。借入と返済のバランスシートのシミュレーションを見ても決してマンションの収益が貢献するとは限りません。それだったら、銭湯一本で借入金を圧縮する建築計画もいいかもしれません。分母が小さければ返済も楽になります。また返済が進めば、バランスシートもよくなります」

 この業界には、銭湯を得意とする設計事務所が何軒かある。なかには作り笑いをしながらその銭湯の内部事情を探った後、他の銭湯に情報を売る心無い設計屋がいることもある。地主との息詰まる折衝の最中でも、そのすべてに会い、この土地に合う銭湯の青写真を描いてもらった。その忌憚のない話し合いの中で、信頼できるところと設計契約を取り交わすことにした。それぞれ一長一短があるが、一番大切なのは粘り強く話を聞ける人間性と、どこまでも施主を第一義として行動できること。そして、建築後の不具合等に対して誠実に対応できるかだろう。

 俺は、必ず設計事務所の建築士に頓智(とんち)のような質問をした。

「上はマンションで、下は露天風呂のある銭湯をつくってほしい」

 すると必ず、担当の建築士はしばらくして「えっ」という顔をする。

 そこで「そんなの出来ない」と言うか、「あーでもないこーでもない」と想像を膨らませるかで、その人間性と、設計における独自性と想像力を秤にかけた。

 銭湯は1階、そして露天風呂がある。その上に10階建てのマンション。あなたならどんな設計をしますか? という少し意地悪な建築プランだ。

 おもしろいことに、目をきょとんとする奴もいれば、挑戦されたと思って脳みそを絞るように面白い提案をする奴もいた。逆にさらにこうしましょう、ああしましょう、真逆に現実的にそんなの出来ませんよ、と白々しい反応しかしない奴もいた。

 現状維持だから銭湯がどんどん潰れているなかで、今までにない面白い銭湯を一緒になって作っていく気概のある奴とでなければ、いい仕事はできない。

 今まで一軒の家でさえ建てたことのない俺は、借地人として不遇の時代を過ごしていたこの10年以上にわたって、新しい銭湯を造るとしたらこうしたいと、デッサンを書いては丸めて捨てる。そんなことを繰り返し、妄想だけは膨らませていた。

「宝田さん、俺たちは本当に地主さんにいじめ抜かれたんですよ。今となっては笑い話ですけど、だから俺は気持ちのある奴としか仕事はしません。だから、そのつもりでいてください。俺は少し生意気なこと言いますよ。いやならやめていいですから」

 宝田はニコッと笑って言った。

「川越さん、今や銭湯業界では有名人ですよ。土地をひっくり返した若手経営者がいるって。そんな気合いの入った人と僕は仕事したいんです」

 そして、こうも言った。

「実は私どもの会社、一度つぶれているんです。バブルの影響もありましたが、先代の社長が体調不良でにっちもさっちもいかなくて、一から私が立て直した経緯があるんです。だから、仕事に対しては自信があります。ぜひ、私どもにやらせてください」

 まっすぐ曇りのない目だった。

 こいつはマジだな、と思った。そして、ひとつ最近の銭湯の傾向を語った。

「それにしても、最近の銭湯はマンションにしたがる店が多いですね」

 宝田は真面目な顔をして言った。

「川越さん、信組が貸してくれないんですよ」

「え、東浴の信組?」

 俺は意外そうな顔をして聞き返した。

「銭湯業界は不景気というより、このまま消滅する勢いなんです。銭湯一本でやれるところは、ほとんどない状態です。安定収入と安定返済を考えると、マンションを併設するしかないんです」

 宝田は銭湯の裏表の事情をよく知っている。

「確かに。そうかもしれませんね。ただ、マンションをつけることで、主役である銭湯に制約がかかる可能性もあるのは間違いないでしょう。僕は銭湯一本でのびのびやります。それでダメならダメ、背水の陣でやらせてもらいますよ」

 その背景には、長年地主に圧迫されていた経緯があるのは明白だった。俺はとにかく自由になりたかった。そして、自由になれた。だから、自由な銭湯を造りたかった。

 そこで長年温めていた計画の一端を宝田に話した。

「宝田さんもご存知だと思いますが、うちの父親は躁鬱病です。ですが、あの病弱なオヤジが黒湯を掘り当ててくれたおかげで、今があるんです。だからこそ、僕はオヤジを超えたい。武蔵小山に石油を掘るのもおもしろいけど、どうせならもう一本、温泉を掘ろうと思います」

 宝田は目を見張って

「川越さんは本当におもしろいですね」

 こんな銭湯浴場主は見たことない、という顔をしていた。

 近々に新しい設計図を書いて持ってくることを約束して、その場は散会となった。そしてその設計図を基に事業計画書を作り、信金に提出することになる。

 そんな多忙な日々が幾日か過ぎた。突然、信金から電話がかかってきた。融資係の川田からだった。電話越しから実直そうな声が聞こえてきた。

「土地購入資金の最終審査が、今週末通りそうです」

 そして、実印、印鑑証明書などが必要になるので用意しておいてくれ、と言われた。

 一先ず、地主に底地代を払うことが出来る。安心すると同時に「こんな俺が億の借金をするのかぁ」と何故か顔がニヤけてきた。不思議と不安感が湧いてこない。これが既定路線。太陽の運行リズムのように、決められた道のような安堵感が俺を包んでいた。

 全てが怖いくらい順調に動き出していた。そう、怖いくらい……。順風満帆な時こそ注意が必要かもしれない。そう思いつつも、ふっと脳裏にこんな言葉が浮かんでは消えた。

 以前、読んだ池波正太郎の小説の一節だ。

「天の与うるを取らざればかえってその咎めを受ける」。

「もう止まれない」

 中坊(ちゅうぼう=中学生)の頃からいろんな事に中途半端だった俺が、12年の不屈の時代を乗り越えて、一皮むけるように孵化することができたのだろうか。今まさに羽ばたこうとしている、そんな気持ちだった。


(「俺の銭湯」は、毎月第1金曜日と第3金曜日に更新します)