2016/08/19

俺の銭湯

th_数寄屋門 紫


【著者】川越太郎/1968年、新潟に生まれ東京で育つ。武蔵小山温泉 清水湯の3代目。 かつては閑古鳥が鳴き潰れかかっていた清水湯を、都内屈指の人気銭湯へと生まれ変わらせた銭湯業界注目の若手銭湯経営者。海と妻と3人の子供たちを心から愛する男。空手3段。


主な登場人物
・太郎(主人公)…清水湯3代目
・マユミ…太郎の妻
・紅(くれない)…太郎の長女
・太介(だいすけ)…太郎の長男
・リカ…太郎の次女
・オヤジ…太郎の父
・オフクロ…太郎の母
・地主…清水湯に土地を貸している地主
・宝田…清水湯の建て替えを担当する設計士


 残暑厳しい真夏の盛りだった。中天に昇った焦げるような太陽はまだまだ衰える気配を知らない。真っ青な袖看板にその焼け付く太陽が反射していた。

 店内に入ると、ソファーに座っている建築士の宝田が、汗を拭きながらこちらを見てニコッと微笑んだ。小脇には事業計画案、そして青写真になる設計図を大事そうに抱えていた。

 何度も何度も喧々諤々(けんけんがくがく)と打ち合わせ、何度も書き直させた設計図と事業計画書を、今日、信用金庫に提出することになっていた。

 土地買い取りの融資審査は最終段階に入っていた。その話と共に、今回は新しい銭湯の事業計画を説明する必要があった。

 すぐに2階の応接室に通された。今日は俺も背広を着ている。昔から改造制服と背広だけは似合っていた。

 支店長の徳田も融資係の川田もいる。お互いに会釈するとそのまま席に座った。

「宝田さん、事業計画書をお配りください」

 宝田は慇懃に二人の前に差し出した。

「銭湯に約3億円かかります。別途温泉掘削で1億円です。正味4億円です」

 そして、設計図を広げながら言った。

 ファイル折りされたケント紙を広げてみると、墨痕も鮮やかにこれから生まれゆく新しい銭湯の未来が描かれていた。それは唐破風の大屋根の左右に小屋根を配し、遠目で見ると漢字の「來」のように見えなくもない。建物は人柄が出ると言われている。お客様に来ていただきたいから「來客」を表現してみた。その正面外観図は今までの銭湯とは一線を画していた。

「見てください。坪数240の中で、前面道路から20メートルが近隣商業地域となり、それより後方が第一種住居地域となっています。建ぺい率は、近隣商業地域が80%で、第一種住居地域が70%。容積率はそれぞれ300%です。銭湯の設備として、浴槽は男女とも4つずつ、水風呂、露天風呂ともにすべて天然温泉を使用します。今までの番台方式からフロント方式に変えて、お客様の要望に応えられるようなオペレーションもしやすくなります。絵に描いたもちですが、売り上げの目標は……」

 俺は設計図と事業計画書をそれぞれ指さしながら訥々(とつとつ)と説明していった。

「土地の所得費用と銭湯建設費用、合わせて約7億円です」

 徳田は口を開いた。

「川越様。担保能力は十分にあります」

 ここで宝田がひと言はさんできた。

「支店長さん、清水湯さんの銭湯としてのポテンシャルも高いですよ」

 徳田と川田が顔を見合わせて、どちらからともなく言った。

「川越様の情熱を感じました」

 なんだか男にほめられるのは恥ずかしいものだ。俺は少し顔が赤くなった。

 土地(底地権)買い取りの審査はほぼ確定した。この後、いい銭湯を創る。そこに一点集中していくだけだった。

 家に帰った俺は末の娘のリカを抱きかかえながら頬ずりした。

「おっぱいいっぱい飲んで大きくなるんだよ」 

 どこまでも甘い声で語りかけていた。

 今しがた幼稚園から帰ってきた制服姿の紅が

「パパどこ行ってたの」

と聞いてきた。

 リカをベビーベッドにそうっと寝かして、天井に手を広げているリカを横目に、紅をだっこしながら答えた。

「うん、すぐそこの信金(しんきん)さんだよ」

「え、ちんきんさん?」

 俺は笑いながら答えた。

「ちがうよ。くーちゃん、しんきんさんだよ。そーだなーわかりやすくいうと貯金箱があるところだよ」

「ふーん、わかったぁ! パパお金ないからもらいにいったんだね!」

「うん、そーだよ。でも、もらうんじゃなくて借りに行ったんだよ。パパお金ないから、これからがんばって沢山お金稼ぐからね」

「うん! パパがんばって! くーたんの貯金箱もつかっていいよ」

 何気ない一言が、偶然じゃなく必然的な言葉の重さになって心に刺さってくることがある。俺を励ますために生まれてきたのかな、なんて錯覚をおこすことがある。

 太介も足元にきて抱っこをせがんでいた。右腕に紅、左腕に太介。リカの寝ているベビーベッドの前で二人を両腕にかかえながら、これでもかと頬にキスをすると、きゃっきゃっ、きゃっきゃと喜んでいた。

 融資の審査は通った。地主と決済日の日取りを決めた。

「どうしよう、こんなチャンスはまたとないかもしれない」

 まず、底地買取の支払金額3億円が口座に振り込まれていた。

 その9ケタの通帳記入の欄を見ながら、3億円を現ナマにして記念撮影するか真剣に悩んだ。ちょっと浮かれていたのかもしれない俺は、信金に電話した。

 タイミングよく川田が出た。

「川越です。率直に言います。3億円と記念撮影していいですか?」

 川田が笑いながら、いいですよと言った。たまにこんなバカがいると言いたそうだった。

「でも、警備員を呼ばないといけないので、警備費がかかってしまいます。それは注文した方の負担になってしまうのですが、よろしいでしょうか」

 3万円かかると言われ、断念した。

 さて、その後、日取りを決めた。どうやらこういう日は大安吉日がお決まりのようだ。地主に底地代を払うと同時に、土地の名義変更をしないといけない。信用金庫に関係者が集められた。

 地主、行政書士、支店長の徳田、融資係の川田、そして俺。土地譲渡契約書と書いてある書類が目の前に差し出された。

 右手には以前、結婚記念日にマユミが贈ってくれたモンブランのボールペンを握っていた。

 安い筆記用具しか使ったことのない俺は、なんでモンブランなんだろうと思った。だが、それはきっと、しがない銭湯の息子に一角(ひとかど)の経営者になってもらいたいと願って、高価な買い物をしてくれたのだと思った。マユミはそういう些細なことで男を奮い立たせる良妻賢母の側面を持っていた。手に持ってみるとわかるが、適度にある重量、そしてしっくりする黒い光沢が美しいアウトフォルム、キャップの先には白雪に覆われたモンブランが象られている。滑らかな書き味で文字が掠れるようなことはない。この時のためにあったと思わざるを得ないほどに、堂々と契約書にサインをすることが出来た。その他にも何点かサインをする。

 そして3億と書いてある小切手を渡すと、3億と書いてある領収書を渡された。

あとは行政書士に土地の書類を作成してもらうだけだ。

 俺は目の前にいる鷹揚としている地主に向かって、朗々とした言葉で語りかけた。

「先生、この度はたいへんにありがとうございました。売っていただいた土地は子子孫孫まで大切に守り、生かしてまいります」

 そこには毛筋ほどのわだかまりもなかった。ただ心からから感謝の思いしかなかった。地主はにこやかに微笑んでいた。あれだけつばぜり合いを演じてきたにもかかわらず、すでに過去のこととなってしまっていた。俺も地主もただ自分の置かれている役割を演じてきただけのことなのだ。借地という舞台で、俺は風呂屋の三代目の役を、地主は大地主としての役を。

 地主は言った。

「川越さん、いい風呂屋を作ってくださいね。私もお風呂に入りに行こうと思っているんだよ」

 俺の顔は晴れわたっていた。なんだか今までのわだかまりが完全に消えていった瞬間だった。

 俺は地主の目を見て言った。

「今まで、本当にありがとうございました」

 感慨深いものが胸の奥を過ぎ去っていった。

 ここで何世代も続いていた地主と借地人の関係が解消した。心の中で鉄の鎖が外れる音が聞こえた瞬間だった。

 ふっとオヤジの部屋のおじいちゃんとおばあちゃんの遺影が頭をかすめた。やっぱりニコッと笑っていた。


(「俺の銭湯」は、毎月第1金曜日と第3金曜日に更新します)