「1010」誌では、かつてさまざまな入浴実験を行っていました。この連載では、過去の掲載記事をダイジェストでお届けしています。

今世紀初頭のブームだった「マイナスイオン」

 大きいお風呂に入ると、なぜ気持ちがいいのだろう? から始まった医学実験は大きな成果を上げることができましたが、「1010」誌の追究はそれだけに終わりませんでした。その4年後、「1010」編集部は新たなテーマに挑戦することになったのです。それは、大きな浴室に充満する、心身を心地よくする空気についてでした。

 広い浴室に充満する心身を心地よくする空気とは、「マイナスイオン」をたっぷり含む空気です。

「マイナスイオン」という言葉、懐かしく感じられる方も多いでしょう。今世紀初頭、ちょっとしたブームになった言葉です。ちょっとおさらいしてみましょう。

 滝の近辺で空気が負に帯電するという現象がありますが、20世紀の初頭頃、ドイツの気象学者フィリップ・レーナルトが、「水滴が微細に分裂して摩擦することによって空気が負に帯電する」と説明しました。これを「レナード効果」といいます。ドイツを中心にこの現象と生理学や病理学との関連が研究され、日本でも1920年代から1930年代に同様の研究が行われるようになったとされています。

 日本では空気中の陰イオンを指して「空気マイナスイオン」という訳語が使われ、1930年頃には病気に対する症例報告が行われるようになったと言われています。

 その後、戦争によって研究の進展が停止したものの、20世紀後半に入って再び注目を集めるようになりました。「1010」誌がマイナスイオンに注目したのも平成10年のこと。銭湯の大きな空間にはさぞかしマイナスイオンがたくさん飛散しているはずだ、滝つぼに似た環境だから、という発想で調査実験を始めたのでした。

 それについては後で述べますが、ブームとなった「マイナスイオン」の流行語としてのピークは平成14年夏ごろだったとされています。当時、「マイナスイオン商品」と呼ばれる様々な商品が大量に市場に溢れ、その現象が社会問題となりました。なぜなら「マイナスイオンは体によく、プラスイオンは体によくない」という単純な二元論をベースに、マイナスイオンが科学的に何を意味するのかについての定義もはっきりしないまま売り出されたからです。それら商品はマイナスイオンの効果効能を標榜するものの、その実証はありませんでした。

噴水や滝の近くに匹敵する銭湯のマイナスイオン量

 あたかも科学的に健康効果があるかのように見せる表現が問題視され、急速にブームはしぼんでいきました。ただし、水が破砕する滝つぼや激流、海岸などにはマイナスイオンが多めに存在し、そのような環境に身を置くと私たちは爽快感を味わえることを体験上知っています。だから、マイナスイオンの量は爽快さの目安にはなると考えるのは不自然ではありません。問題は、行きすぎた健康効果の標榜にほかなりません。

 銭湯の浴室に果たしてマイナスイオンがどのくらい満ちているのか、について調査を初めて行ったのは平成10年のことでした。その結果については『1010』誌第32号に詳しく載っています。その記事の冒頭には、「想像以上だった。『理論上銭湯にはマイナスイオンが多いことは予測できましたが、これほどとは……』これまで各地の空気を測定してきた、イオンのエキスパートが舌を巻いた。『体にいい空気が大量にある銭湯は、健康にいい空間である』ことが実証されたのだ」と書かれていました。

 細かな水滴が飛び散る所にマイナスイオンが多く発生する、という原理を銭湯に当てはめ確証を得ようというのが調査の動機でした。

 調査は、渋谷区の改良湯で平成10年3月22日に行われました。午後4時から午後10時までの6時間、脱衣場の浴室入り口付近に計測機器をセットし、マイナスイオンの量を測定した結果が下の図です。ほぼ空気1cc当たり200〜400の一定した量のマイナスイオンが測定されています。

【脱衣場定点ポイントでのマイナスイオン量の変化】

マイナスイオングラフ

 200分を経過したあたりで数値がストンと落ちていますが、これは脱衣場での喫煙者が多かったためと考えられます(当時はまだ公衆浴場は全面禁煙にはなっていませんでした)。また、270分付近で数値が著しく上昇しているのは、浴室の扉が開けっ放しになったからだと思われます。水滴を含む空気が流れるだけでこれほどマイナスイオンの数値は急変するのです。

 では200〜400という量はどう評価されるのでしょうか。あくまでも参考値なのですが、皇居和田倉門噴水付近が3000〜14000、皇居二重橋前が80〜110、新宿中央公園噴水付近が8000〜18000、新宿中央公園の森の中が70〜130、東京駅八重洲中央口が70〜120、タバコの煙が10〜40となっています。

「なんだ、銭湯は大したことないじゃないか」と思われるかもしれませんが、この調査を監修した山野井昇氏(当時、東京大学医学部)によれば、「長時間を過ごすにはマイナスイオン量はこれくらいがちょうどいい。あまり多すぎても眠くなったりしますから」ということで、「非常に優秀な数値」なのだそうです。

計測可能な数値を超えた!

 実は、銭湯におけるマイナスイオン量計測実験の最大のネックは、機器が水に濡れて故障してしまうのではという懸念でした。そこでやむなく定点観測ポイントを脱衣場にしたのです。ただ、定点観測に移る前に、開店前の浴室で調べた浴槽付近のデータに、スタッフは大いに驚かされました。

 バイブラバスの浴槽付近で調べたところ、数値が1000、3000、7000ととめどなく上昇していき、9999を指して止まったのです(4桁表示のモニターだったため、万単位の数値は表せなかった)。つまり、町中の銭湯の湯船あたりは噴水や滝の近くに勝るとも劣らないことが推定できたのです。なお、シャワー付近は1032という数値を計測しました。

 ならば、家庭のお風呂ではいけないの? という疑問が浮かぶかもしれません。水滴が弾けて細かな水分子になる時、水分子そのものはプラスに帯電するのですが、その結果周辺の空気中の原子をマイナスイオン化していく、したがって浴室の空気はマイナスイオンで満たされる、というわけです。家庭の浴室の場合、同じように空気はマイナスイオンで満たされるのですが、空間自体が狭いためあっという間にプラスに帯電した水分子で満たされてしまい、逆効果になるのです。

マイナスイオン

免疫力強化に役立つという期待も

 最後に、空気イオンの研究で知られるカリフォルニア大学(平成10年当時)のクルーガー博士の実験をご紹介します。彼はラットをマイナスイオンが多い状態とプラスイオンが多い状態に置き、気管の粘液量と絨毛運動のレベルを調べる実験をしました。実験の結果は、プラスイオン過多の環境で、粘液量、絨毛運動量がともに著しく低下していること、マイナスイオン優勢時にはどちらの数値も急上昇し、実験開始時と同レベルに回復したことが明らかになりました。

 これは、マイナスイオンが自律神経の副交感神経を優位にして、呼吸器機能と併せて体の防御機能全体の力が向上したことを示しています。銭湯には、健康向上のためのこんな機能が隠れているのです。

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銭湯の浴室はマイナスイオンで満ちている


(「銭湯で元気!」は毎月第2金曜日に更新します)